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掌編小説【薔薇喪失】02.『荊棘に夢を綴る五線譜』

 目を覚ました場所は粗末な柩の中だった。長い睫毛は自らの長さと重みに気怠く瞬き、ゆらゆらと凝る深海色の瞳の光が、濁りとは違う明度を呈して揺蕩うていた。麗人は忘れられていた。世界の全てが廃墟の天井、割れて牙となり今にも降り注ぐような、亀裂の入った薔薇窓をただ見上げていた。置かれた場所に誰の気配もなく、麗人は死者になった気分でありながら微睡みから醒めていく。襤褸(ぼろ)の柩の縁に手をかけて起き上がると、やはりそこはがらんとした廃墟だった。建物が廃された事実が残っていることさえ忘れられているような佇まいだった。死んだものにしては、あまりにも整った虚無の空間であった。水の匂いが乾いて久しい気配がする。生の根源である流れ続ける水が、その存在を忘却されるほどの時間が過ぎているようであった。生きている時間は美を保つために必要な潤いは、生が終わると流れることをやめて淀み腐る。腐敗さえ乾ききって、建物は乾いた薔薇硝子と、亀裂の走る壁、枠だけを残した窓に、砂埃の積もった床という生の遺物が風化してそこにあるのみであった。

 麗人は夢の中身を回顧しながら、しばらくの間柩の中に座っていた。微睡みから脱する過程にあって、麗人の物憂げな瞳は、ぼんやりと部屋の隅に視線を投げてはいるが何も見てはいなかった。視点が合わなくて、廃墟の一室、その隅に黒い影が見えるばかりだった。

 夢の中の麗人は、誰かに渡すための薔薇を、抱えきれないほど抱えていた。ただ、その相手が誰だったのか、誰に薔薇を渡そうとしていたのかが思い出せない。

 両手に奇妙な感覚があった。柩の縁に乗せた腕と、行くあてのないもう一方の手を開いて、麗人は手のひらに視線を落とした。

 麗人の、白く指が長い、美の彫刻のような手は、血で染まっていた。夥しい何かを、殺してきたような赤が、血だらけの手を持ち上げると手首の方に流れてくる。薔薇を失った血まみれの手は、行方をくらませた想いの匂いを纏わせたままでいた。薔薇の、匂いがする。

 麗人は柩から出て、廃墟の床を踏みしめた。踵の高い編み上げのブーツが、埃の褥に足跡を作り、捧げ物を失くした手を見つめながら歩いたので、床に落ちた血が一雫ずつ赤い花びらになっていく。

 麗人が見つけたのは壊れかけたピアノだった。眠りと現実の境界で凝らした目には黒影にした見えなかったものの正体は、ピアノだった。麗人はピアノの椅子に腰掛けた。戯れに鍵盤を押すと、埃をかぶった、不恰好な音がした。調律を長いこと施されていないピアノの音である。麗人は血の染みた指先で、ピアノを弾いた。

 何か素敵な曲を弾こうと思って、麗人は頭の中の五線譜に薔薇を乗せていった。それなのにも拘わらず、麗人が即興で奏でる曲は、悲しく軋るような音色だった。くすんだ色をした薔薇のように、存在は高貴で格調高いのであるが、寂しく褪せていたのだった。麗人が弾くピアノの音色は、上品が過ぎる葬送曲に似た色をしていた。麗人は、自分にピアノを弾く才覚があるにも拘わらず、ピアノを弾くことが好きではなかったことを思い出した。何処で忘れてきたのであろうか?

 ピアノへの死んだ想いに思い馳せる麗人の寂しい歌に、集まる影の群れがあった。悲しいピアノの音色に引き寄せられた客たち『寂しい何か』が、一つ、また一つと何処からか現れる。虚ろなものと違って群れをなさない寂しい何かは、何処からともなく集まってくる。声を立てることもなく、集まった同じ寂しさと麗人の演奏を楽しむこともせず、共有することもしないで、寂しい影は増えていく。

 血濡れた指先は、いつまでもピアノで歌うことをやめようとしない。麗人は思いついたそばから、昏(くら)い激情を鍵盤に叩きつける。荊棘の五線譜に描いた曲に、指先は傷だらけだった。


『ピアノが弾けるの?』


 麗人は永遠が頭の中で弾けた感覚に襲われた。人生よりも、ずっと短い時間。永遠という名前を騙る、数年。

 溺れていた夢の中で、薔薇を渡そうとしていた相手を思い出していた。どんな輝石よりも高価な悲しみ色をした青の明眸に、涙が滲んだ。破壊だけをもたらせる美。その暴力だけを価値としていた頃、ピアノが弾けることを素敵だと思わせてくれたひとがいた。愛らしさと美しさを兼ね備えた優しい瞳が、尊敬の光を湛えながら、優しい歌をねだってくれた……

 そのひとが、麗人の思いを一つ、粉々になるまで殺したのだ。


(でも、僕にはもう)

(優しい曲は、弾けないよ──)


 白い頬を、溶け出した冷たい美が滴る。最後に残った凄絶を奏でた指先が、鍵盤から離れると、麗人のピアノのために集まっていた寂しい何かは砕け散った。静寂が戻ってくると、廃墟の観客たちは残響に飲み込まれて消えた。

 ピアノを弾くのを終えた麗人の手は、血濡れた剣のように赤黒く汚れていた。壊れた人形のように、麗人は頽(くずお)れて椅子から崩落した。灼けつくダイヤモンドのように罪深い輝きの涙が、鋭い眦の険を滑り落ちる。壊れた聖堂のように身を投げたまま、麗人は血まみれの手をじっと見つめていた。その血は願っても、薔薇にはならなかった。

 血に汚れた鍵盤から、溶け出した想いが滴る音が、無機質に、響く──

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