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エッセイ『フォローボタンを押すだろうか』

私が他人の目からどう見えて、どう映っているのか。

客観的に見るようにと、様々な局面で言われたり思ったりしますが、自分ができる自分への客観視には、限界があると思います。


私は、どう見えているのかな。珈琲と紅茶、耽美と薔薇と原稿のひとだろうか。私が美しく生きているように映っていたら、嬉しいです。


残念なことに私の容姿は美しくはありません。それでも美しく生きるために、美しい『剣城かえで』という存在でいるために、気をつけていることが、いくつかあります。

まずは『言葉の選び方』。街を歩いていても、容姿が可愛いのに言葉遣いが汚らしいひとを見かけると残念な気持ちになるからです。性別を問わず、私は言葉の使い方が汚いひとを、ブスだと思っています。言葉が卑しいひとは顔にも出ます。『美人は性格が悪い』というひとがいますが、私は『美人は性格がいい』と思っています。勿論全てのひとに当てはまることはないと思ってはいますが、美しいひとは汚い言葉を発して自分を汚すような真似をしないのではないでしょうか。


次に、『見せる部分と見せない部分の分別を徹底したこと』です。此処ではSNSを例にします。SNS、ネットは自分像を作り上げることができる世界ですから、発信する情報次第でなりたい自分になることができます。演出、とはまた違うのですが『自分が何をしている誰なのか』を決めて情報発信をすると、共感してくれるひとや興味を持ってくれるひとが現れる。


私の場合『自分が何者なのか』を考えた時にあったのが、美の表現でした。此処が、ただ漠然と商業作家を目指していますと言っていた頃との違いです。時間はかかりましたが、私のテーマが『美』であることに気づき、浮き溢れた耽美主義に傾倒し、自分を見つけていきました。美を文章で表現することが、私にとっての『美しい生き方』だった。


テーマがはっきりしてからは学がないなりに自分の思う美を書いていきました。とても不勉強だったし、今も勉強は足りていません。でも、不勉強だからという理由で完璧になれるのを待って、何も行動・執筆をしないことが一番悪いことだなと思いました。

試行錯誤という言葉がふさわしい執筆と、圧倒的に足りていない量の発信。その中で、何が自分にとっての美しさなのかを見つけようとしていました。

自分にとっての美の何処が、他者の感覚に響くのか。今も悩んでいることです。私が書く物語を必要としているひとが見つからなくて、届けたい誰かの居場所が見えず、ロストバゲッジのような気持ちに陥ることも何度あったか、もう、分かりません。耽美主義者は本当に、姿を隠すのが上手い。それでいて連帯という概念がない人種なので、増えることはあっても見つからないのです。


私は別に、私の書いた物語に感動したり涙を流して欲しいわけではないのです。今を忘却する、毒になりたいのです。

感想や批評として述べようと思う言葉さえ、忘れてくれていいのです。ただ、手に取った物語が美しかったことだけを、覚えていてもらいたい。

強く、激しく、美しく。これは私の耽美主義の主題です。これを体現し続ける書き手でいたい。それが、私が美しく在る方法なのだと思っています。

これはちょっとした心がけ、でもない基準なのですが『3、4年くらい前の自分が現在の自分を見たら、その生き方や存在・価値観へのフォローボタンを押すだろうか』と考えることがあります。そのくらい前の私はひねくれていたので(今も充分ひねくてれている可能性はありますが。笑)フォローはしないけれど『このひと、気になるかもしれない』と、こっそりアカウントをチェックしているだろうなと思っています。多分、畏れ多くてフォローできない感じに近いのかもしれません。


私の生き方が本当に美しいか正しいのかは、私の最後の体験だけが決めます。最後の体験、それは、死です。死だけが生き様を語るのです。生者と死者の間に、連絡がないゆえに。

小説は所詮虚構かもしれません。でも、その虚構の中に美を表すことを決めて、私は美を誰かと分かち合おうとしている。物語という虚構の死脈を、繋がりという血潮で生きたものに変えようとしている。何が美しいのかを探してもがいている私の姿が他人の目にどう映るかは、私には分かりません。私に委ねられた判断ではないからです。


それでも、私のことを美しいと思う方が一人でもいてくれたなら、私は嬉しいです。

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