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エッセイ【心が減るという表現】

以前、掌編を書いていたときに、


『心が減る』


という表現をしたことがありました。確か、小説投稿サイトに連載している掌編オムニバスに収録されているどれかの話に書いたのです。

「心が減る」感覚は、きっとたくさんの方が経験したことがある気持ちだと思って、書いたのを覚えています。勿論、その言葉が表現として出てきた以上、私もその感情を抱いたことがあったのでしょう。この気持ちをもっと掘り下げて、伝えられることができたなら、たくさんの共感を、疲れた心に薔薇を一つ、咲かせるみたいに生み出せるかもしれないと思いました。


でも、心が減る感覚の寂しさを、どうしたら多くの方と分かち合えるのか。

どうしたら、自分も同じ思いをしたことがあると悲しんでもらえるのか。

確実にこの感覚を伝える描写が分からなくて、詳しく書くことをしませんでした。

『心が減る』とだけ、書いて。


書けないのなら、例を出すのは良くないと思ったのです。

例え話をするのなら、きちんと分かってもらえる内容にしないといけません。

分からない例えは逆効果で、かえって伝わらないし、想像を妨げてしまう。


誰もがきっと思うことを見つけたのに、詳しく伝える方法を持っていなくて、具体的に書けなかったことが悲しかった。

空腹とも違う、虚しさとも寂しさとも違う、何かが無い状態。


私が思う『心が減った状態』の一形態として書きたいことがあります。

私にとって心が減るという気持ちは、


『薔薇を買いに行きたい気持ち』


悲しいことがあった日に、薔薇を買って帰りたいと、思った日がありました。

心の隙間を薔薇で埋めて、他のものが入ってこないように。

くだらないものを追い出して、悲しいものが付け入ってこないように。


でも、そんなふうに薔薇を買っていたら、私の部屋はたちまち薔薇で溢れてしまう。薔薇と共に渇いてしまえたら、渇きに埋もれて死んでしまえたら、私は腐敗ではない死を迎えられるのだろうかと、思ったことがありました。

花は終わっても、人間と違って「渇き」という死の形態を選ぶことができるから。


渇きに埋もれて死んだ私の心には、きっと隙間なんてない。

薔薇に価値を感じない人が、渇きに埋もれた私と朽ちた薔薇を芥にしながら、私の悲しみを処分するでしょう。

でも、心の減った部分を薔薇で埋めた私は、死んでも世界には勝利しているのです。

私の悲しみを、心のうろを処分する誰かの嘲りさえも、私の心に干渉などできないまま、私は炎に包まれる。


『薔薇を買って帰りたい』

この気持ちは、もっと睨み付ける必要があるようです。

この感情を紐解くことができたとき、私は私の知らない誰かの部屋に、そっと薔薇を置いていなくなることができるでしょう。

優しい薔薇を、寂しく置き去ることが。

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