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緩やかに

最近、ひとつのことだけをやるのではなくて、気になることを並行してやっている。本も、小説を読んだり、漫画を読んだり、雑誌を見たり、料理の本を見たりいろいろ。気になる動画やコンテンツを見たり、それも、いろいろ。読みかけの本が何冊かある。

以前はひとつのことを最後までやってから次に取りかかっていたけれど、変わってきたらしい。本を読んでいると止まらなくなって、睡眠を取らずに読んだりしていたけれど、「ここまでにしよう」と思うようになってきた。少しさみしい気もするが、途中でやめることができるようになってきた。そして、やめても、また続けることができるようになった。どこか緩やかになってきたのかもしれない。

仕事の面でも「ここまでやらないと」とか「今日はこれを終わらせないと」というこだわりが薄れてきている。いい感じだ。だいたい、計画通りにことが進んでも、他のところで崩れてくることが多いし、思いがけないことが襲ってくることも多い。逆に、思いの外うまくいくこともある。あれもこれも気になって、全部自分がしないといけないような気がして、キリキリした心持ちで過ごすことが多かったけれど、結局、人に任せることが下手だったのだろう。任せるだけの度量がなかった。私のやり方にこだわりすぎていた。

こだわることは、悪いことではない。ないけれど、それによってうまくいかなくなるのは困る。こだわるべきところは、こだわればいいけれど「そこじゃない」ということもある。

私は人を信じきれない。だから、あまり本音を言わない。正直にズバズバ言うことも多いし、嘘は言わないけれど、本当の本当はそう簡単には言わない。けれど、noteに文章を書くようになって、ここでは本当のことを書いている。この文字を入力している画面の向こうに、人がいる。その存在は感じている。私はその人たちのことを信じているのだろうか。「私の拙い文章の中から、何かを読み取ってくれる人がいるかもしれない」ということを信じて書いているように思う。

なにも大したことが日々起こっているわけでもない。大きな視点で見たら、毎日平坦な日々だろう。何の特色もないかもしれない。けれど、ただ歩いているだけでも、仕事に行っただけでも、私なりの発見や感動、憤りがある。部屋にずっといる日も、心は動く。そんなことから何かを言葉にするのだけれど、書いているうちにわかることもあって面白い。

記事を公開してから何日も経っているのに読んでくれる人がいる。ぽつぽつと、評価をしてくれる人がいる。きっと、誰も見てくれなくても文章を書くだろうが、誰かに届けたくて書いているのだろう。不思議だ。人のことは信じきれないのに、人に届けたい気持ちはあるのだ。

「全て、完全に」ということはむずかしい。全部思い通りになることはないし、全部うまくいかない、ということもない。今は世界と緩やかにつながる練習をしているような気分だ。時折、絶望的になるけれど、全部だめなわけではないのだ。コンプリートしなければ何もしたことにならないわけでもない。

緩やかに、続けていく日々を過ごしている。