自分で見つけ出したもの
何かで立ち止まっている人がいるときに、『こうすればいいですよ』とアドバイスをしたりされたりすることがある。ささいなことだったり、人生がかかっているようなことだったり。
そのとき、すぐに人の意見を聞いてやってみて、うまくいくこともあるだろう。そして、アドバイスをくれた人に感謝して、先に進んでいく。
一方、人の意見を聞かずに頑なに立ち止まり続ける人もいる。自分で答えを探そうとする。自分なりのやり方で模索し、納得するまで続ける。
どちらがいいということでもなく、立ち止まってしまった原因にもよるだろうし、その時々、人それぞれだろう。
あるドラマで、立ち止まり続けている人物が描かれていた。それは見ていて辛くなるほどだった。大切な人を亡くし、それを認められず、受け入れられず、自分は絶対に立ち直らないと口にしていた。
周りの人は何かあるごとにその人を支え、いつかまた以前のように戻れるよう見守っていた。
そんな中ある出来事があり、その人は自分で気づき、納得した。あの人はもういないと自分が思っていることに気がついた。それで現実を認め、受け入れることができた。そこから一歩ずつ歩き出せるようになった。
何か問題があって答えを導き出すときに、どうするか。先に答えにたどり着いた経験のある人から教えを受ける。または、同じ問題に直面している仲間と一緒に考える。本やデータなどを参考にする。いろいろ方法はあるだろうと思う。
ただ、自分で気づいたことにはかなわないのではないか。自力で得たものと、他から与えられたものでは納得の道筋が違う。
以前辛い状況で、とてもひとりでは立ち直れそうもないとき、本を読んで立ち直るきっかけをつかもうとしたことがある。いろんな本を読んで、なるほど、と思い、日常に向かうのだが、なかなか思うようにはいかず、気づいたら元どおりの辛い状況に戻る…の繰り返しだった。
誰かからヒントをもらったり、答えを教えてもらったとしても、ちっとも悪くはない。それはそれでいい。ただ、それで分かった気持ちになったとしても本当に分かってはいない。実際にやっていないからだ。理解の深度が違う。
読書をしていて、自分の知らない世界を体験したり、新しい知識を得るのも面白いが、自分が実感を持って共感できるときぐっと話にのめり込んでいける。同じ本を何度も繰り返し読むことがあるが、読むたびに印象も変わるし、理解度も変わる。それはこちらが変わっているからだろう。
日々、何かを経験し、変化している。
何もしなかったとしても、そのこと自体を経験している。
年を重ねると経験は増えていく。
辛く悲しい経験も、おかげで読書の役に立つ。
きっと誰かの役に立つこともあるだろう。
『心の中身』を考えたときに、『どうせそのうち回復するなら、さっさと回復できればいいのに』と思ったが、そう簡単なものではなさそうだ。さっさと回復したら、またすぐに傷つくのだろう。そして『回復の過程で得難い経験』をしていれば、同じことでうずくまることは少なくなるのだろう。同じように傷つくことがあっても、自分で治し方が分かっているからだ。時間がかかったとしても、自力で立ち上がれる。
今回ドラマの一場面でいろいろ考えさせられた。私の経験の一部が反応したと思うと、面白いなと思う。