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魔法

魔法。
あらためて文字にすると、どこか厳かで怖いと感じるが、子どものときから『魔法』という言葉はよく使うもの。

最近ふと思ったのは、魔法とはシンプルに言うと『願いをかなえる力』なのかと。
願い=思い、かなえる=実現する、ならば、できる気がしてきたのだ。
魔法を使えるかもしれない…。

ありえないことを願いにしたら、人の力では実現できないこともあるだろう。しかし、私の場合、そんなに大それた願いがないのだ。
そして、例えば「宝くじが当たったらどうするか」というよくある質問を自分なりに考えてみると、「今の暮らし−今の仕事」になるだけ。
夢がないということか…。
いや、たどり着いた今の暮らしをしあわせだと感じているということか。

まだ実現していないことは色々ある。
ただ、自分次第でできる気がしているということだ。機が熟したということだろうか。私が魔法使いなら、すべて魔法のおかげだと言われるのだろうな。

やるかやらないか。
ただそれだけのことで、結果は大きく変わる。
面倒なことや変化が苦手で、臆病な私はやらなかったことが多かった。
それが変わってきた。

プライベートと仕事のバランスも変わってきた。
そして、仕事というものの概念も変わってきた。
これからも変わり続けるだろう。
行ったり来たりしながら、それでもなんとか向かうべき先へ進んでいるような気がする。

それから、例えば何かを買ってきて、自宅に持ち帰りテーブルに置く。なかったものが、ある。食べ物なら食べたらまた、なくなる。それは、どういう現象なのか。そういうことを根底から捉え直し始めているような感覚もある。思考回路が一旦リセットされて、再構築されているような。
かと思うと、トラウマですか?というような心乱れる状態に陥ることもある。過渡期なのだろう。

不思議な巡り合わせや、思いがけないできごとは日々起きていて、奇跡はもう日常になってしまった。
でも魔法は、ちょっと違う。

…ここにきて、あることに思い当たった。
そうだ。私の魔法観は『ゲド戦記』から来ている。そうか、不思議な力は偶然手に入るものではなかった。さまざまな試練や真理の探究の末に身につくもの。そして、軽々しく扱えないもの。

私はゲドのように、修行者のような暮らしはできない。何かひとつのことを追い求めて専念するのは難しい。それでも、傷ついたり、その都度何かに助けられたり、素敵なものを見つけたり、深く知ろうとしたり。そこは同じだ。
ゲドの試練や探究とは比べものにはならないけれど、私は私で積み重ねてきたものが少しずつ形になってきたのかな。

自分が放った闇から目を背けて逃げて、その後、対峙して融合する。
大小あれども、その繰り返しだ。
逃げっぱなしだと闇からずっと追われ続ける。
目を背けて、なかったことにしていても、ずっと、ずっと、潜んでいる。

なにかひっかかること。
感情が必要以上に揺さぶられること。
そこに私がなかったことにしてしまった闇を見つけ出すヒントがあるのだろう。
追いかけてみよう。
追われるのではなく、追いかけて、真正面からみることだ。冷静に。      
恐怖は、その正体が分からないから増幅されるのだから。

魔法は、夢のようなものではない。
光と闇、陰と陽、世界の均衡のもとで行われるもの。
私が感じた、魔法を使えるかもしれないという思いはまちがってはいない。
ただ、かなえるべき願いは個人的なものではいけないのだろう。
魔法使いの弟子として、今しばらく人里にて修行を続けたいと思う。