久しぶりの『日々ごはん』
またもや、体調を崩して休んでいる。
とはいえ、薬のおかげなのか、かろうじて本を読んだりできるくらいの余力はある。
と言っても、文章を読み砕くほどの力はない…。
どないやねんという感じですが、寝込んではいるが、目は覚ましていられる。
けれど、深くは考えられない状態です。
貧乏症というのか、意外と余白が怖いのか「せっかくできた自分の時間を有効に使いたい」とつい考えてしまう。
別に、のんびりぼんやり過ごせばいいし、そういうのが得意な人物だと思っていたけど、逆でした。
自分でもびっくりしています。
そこで、YouTubeのいい感じで野菜やなんかをたっぷり使って料理しているチャンネルを眺めたりして、ぼんやりと「こんな暮らし、いいよなぁ」と思いつつ過ごしていました。
で、ふと、ベッドの脇にある本棚に目をやると『日々ごはん』があるので、ものすごく久しぶりに手に取りました。
それは、以前私が好きでよく読んでいたもの。
高山なおみさんが日々書いていた日記の書籍。
私が引越しをした時も手放さずに持って来たけれど、しばらく読まなかった。
1巻から12巻とフランス日記がある。
続編も出ているけれど、それは持ってない。
高山なおみさんの料理の本もたくさん持っているし、テレビ番組も録画して録ってある。
大好きだったけど、最近見てなかった。
なんとなく、その理由は分かっている。
直視できなかったのかもな。
無邪気に生きていた頃、高山さんを知って、その後、私は社会の中でいろんなことに気づかされた。
「あぁ、私は、はみ出しものなんだな」とやっと気づいた。
しんどかった。
実際、今もしんどい。
昨日、久しぶりに手にした『日々ごはん①』は2002年2月16日から始まっていた。
くらくらした。
えーっと、何年前?
22年前…。
私は31才か…。
あの頃もめちゃくちゃしんどかったな…。
で、昨日ぼんやりした頭で『日々ごはん①』を読んでいると、高山さんはまだ「クウクウ」に勤めていて、チームでの仕事ぶりについて書いている。
忙しいお店で働いているときに『五感は全開にして、感情だけはニュートラルにしておくのがうまくいく。いつも安定した柔らかい状態にしておく』というようなことが書かれている。
チームで動いているときに『ひとりでもいやな気分の人がいると、皆に伝わって流れにほころびができる』とある。
めっちゃ分かる。
それは、私がほころびになることもあるし、誰かがほころびになっていることもある。
「そんなもんじゃないか」と思う人もいるだろうし、「いつもそんなにベストを尽くせないよ」と言う人もいる。
けれど、それができていないことが辛くて、常には無理だとしても、そこを目指して生きていたいと思うのが私なのだな、と気付いた。
それから『私は最近よく思う。心中してもいいと思えるような、自分から出てくるものについて。』という文があって。
これにもハッとさせられた。
「自分の中にあって」「そこから表面に出てくる」「命をかけてもやりたいもの」?
それを、今、私は血眼になっても見つけ出したいのに、寝ぼけ眼で「ないよ〜」とかぼんやり思っているだけなんですわ…。
現在、高山さんは、他の人からどう思われようと、言われようと、やりたいことをやっているように見える。
最近の日記は見ていないし、心の内は分からないけれど。
きっと私はそんな高山さんがうらやましくて、素直に見ることができなくなったんだろうな。
今の私はまだ、身体も本調子ではないし、せっかく手に取った『日々ごはん』をもう少し読もうと思う。
大好きになった『ゲド戦記』との出会いも『日々ごはん』だったし。
日々生きていく中で、突然なにかのはずみで日常から外れてしまうことがある。
そこで見聞きしたものは、また日常に戻ったときに、すごくキラキラした光を放つことがある。
私はそう思っている。