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料理の本

先日、久しぶりに料理の本を何冊か買った。本屋に入って何気なく見ていて『これは後から気になるな』と思うと買ってしまう。

私は面倒くさいことをしたくない。おいしいものが大好きで、食に関することにすごく興味があるけれど、実践が伴わない。日々の料理が面倒くさい。思えば、ずっとそのことに罪悪感を持っている。

暮らしに関する雑誌を読んでは、部屋を整えたり自分の手で料理をしたいと思いつつ、仕事で疲れ果て晩ごはんを作るパワーはどこにも残っておらず外食ざんまいの日々。そして、ビールざんまい。酔っ払って眠る暮らし。それが私の20代と30代。たまにくたびれた自分を奮い立たせて出汁をとってみたり、凝った料理をしてみたりもするけれど、コンスタントにはできない。

40代以降は少しずつ日々の料理や、たまにお弁当も作るようになってきた。けれど、続かない。休みの日には料理をすることができても、平日の夕食をつくれない。作り置きというものをしてみようと思ったことがあった。日曜の午後から何度かやってみたけれど、ずっと立ちっぱなしで作り続けるのが辛くてだめだった。

そもそも、食生活が良くないから体力がなく、体調が悪いのでは?とも思うけれど、如何ともしがたい。

3年前に引越して、台所が格段に使いやすくなった。食洗機も付いているので、片付けが楽になった。そのおかげで、料理をぼちぼちするようになってきた。

たまに買ってしまう料理の本や、食を扱ったドラマはそうありたい自分、料理をする自分に向かわせるための起爆剤のような役割もある。やった方がいいと思うのなら、迷わずやればいいのだけれど、なかなかできずに楽な方に向かい後悔する。

料理やお菓子、パンの本が好きなのは小学生の頃からだった。もしや、純粋にそういうものが好きなのだろうか。何かの役に立つためだけではなく、好きということ。料理そのもの、食器、盛り付け。そして、材料が何かをひとつずつ読むのも好きだ。それから、作り方。作らずとも、手順を読んでいく。なんだ、私はただ料理というジャンルの本が好きなんだな。それも子どもの頃から。

ものすごくぐうたらでちゃらんぽらんな私と、とても真面目で自分を律したい私がいる。どちらも私なんだけれど、どうしてもぐうたらの旗色が悪くなる。真面目さが私を息苦しくさせているところもあるのだけれど。

最近はひとまず台所に立つために、好きな番組を見ながらとか、興味のある動画を見ながら…ということをしている。じっくり集中して何かをやる、ということが落ち着かない気分なので、今はこれがちょうどいい。あまり感心できるものではないかもしれないが、それでバランスが取れている。だましだましやっている。

ここまで書いて気づいたことがある。私は『しくみを知りたい』という欲がある。料理の本は完成形とその材料、そして工程がつまびらかにされている。それに惹かれているのかもしれない。

私にとって料理の本は見るだけで欲を満たしてくれるものだ。そして気が向けば作ることもできる。作れば食べられる。食べればなくなるけれど満足感が残る。最高だ。

日頃『理想に近づけない自分に失望する』というパターンが多いけれど、あまり罪悪感を持たず気楽にいきたい。ぐうたらな私がぼんやり過ごすうちに『気がついたときには自然にやっていた』というのがいいな。

料理の本との暮らしを、これからも続けていく。