家族のこと、死ななかった20歳の夏


※一部ショッキングな内容が含まれます


私が言う「諸事情」「事情があって」は
大体のことが家族から来ていて、

家族とは一方的に縁を半切りしている。

私の鬱は、①両親の不仲 ②母の過干渉 ③父と私の相性の不一致 ④家族以外の環境要因

の順番で構成されている。多分。自己診断。

両親はほとんど口を聞かない。母の一方的な拒絶とも言う。
理由は不明(触れてはいけないと感じる)時期は高校生の時からと記憶している。

会話のない食事、落ち着けない休日、
誰も触れない、臭い物には蓋をする家族

母が何を思って、どういう事情があるのか私には分からないけど、

小さい頃両親とも好きだった私はどちらか一方の味方になるのが嫌で、
自分から両親と関わりにいくのをやめた

家に帰りたくなくて、高校生の時はギリギリまで学校に残って勉強したり
大学生になったら授業と部活とバイトでほとんど家にいなくなった
(バイト朝から夜まで掛け持ちして月40万稼いだことあったなあ)

家庭環境のせいで何かを諦めるのは絶対に嫌で、(一生自分と両親を責めると思ったから)

目の前のことに必死に食らいついておけば、
落ちぶれることはないし、それなりのルートで明るい未来が待ってるって、根拠はなくそう思ってた。

2020年、学校に行く機会が失われ、
私にとって最も恐れている家での生活
留学もあっさりなくなって

授業も部活も本当は人と会えないならやりたくなかった

学校辞めようと何回も思ったなあ

そんな中誰もやったことないコロナ禍での就活が始まるわけで、なんとなく無理矢理流れに乗って就活っぽいことをしてみたけれど色んなことが一気に降りかかってきて、心も体も追いつくはずなく、

書類だか面接だかの不通過メールが来た日、(2021年4月)

メールが来た瞬間、糸が切れたのが分かった

特に涙が出るわけでもなく、淡々とその日予定してた面接を辞退する電話を入れ、

部屋の片付けをし、
遺書を書いた。
遺書といってもシンプルで、
私がいなくても幸せに暮らしてね、ぐらいの
ライトなやつ。

当時飲んでた睡眠薬をあるだけバッグに入れ、
海に行った

人のいない海で大量服薬すればどうにかなると思った。らしい

そこからの記憶は断片的だけど、
海辺で謎の外国人に出会う。(笑)

多分英語で話しかけられて、就活のこととか色々話してるうちに泣いちゃって、
気づいたら一緒に駅に向かってた

あなたは賢い、上手くいく、大丈夫って言ってくれたなあ

、、、きっとあの人は私を生かすために出会ってくれたんだろうな、とスピな事を考える

その日の海は夕日が綺麗で人がまあまあいたな〜

この時点で自分の異常に気がつき対処をするべきだったけど、当時正常な判断能力を失ってた私はなんだかんだ同じ生活を再開

2021年7月、睡眠薬の副作用でハイになり正常な思考ができなくなった私は、
部屋のクローゼットで生きるのを辞めようとした

踏み台から落ちた音で母が気づき、部屋に来たものの
深夜で電気を付けていなかったから、なのか
何をしていたのかは一切聞かれなかった

当の私は頭がぼーっとしつつも、あ〜失敗したな〜って意外と冷静で、多分すぐに寝た気がする

次の日からも何も言われることはなかった
心なしか腫れ物扱いされるようになった気はするけど、そんなの聞けるわけもなく。

自分が衝動的にそんなことをしたのが悲しくて、辛くて

誰にも言えないまま、心の傷として残っている

それでも何事もなかったかのように授業に出て、課題をしっかりやって、部活では心配されないように人一倍喋ってた
学校辞める、就活辞めるって泣いた日もあったけど、

それはそれで人生終わると思ってたし、
これ以上実家にいる時間を伸ばすのは最悪の選択だと思った

そんな状況でもいつも通りのパフォーマンスができる私が辛かった

3年前に書いた遺書は今でも残していて、
いつでも私に選択肢はある、という
一種の安心材料になっている

そんな感じで紆余曲折とか波瀾万丈とかで片付けたくないような、他にも色んな経験をしたけど

むしろ今もまだ乗り越えれていないけど

今こうして、自分の生活の基盤を作れていること、
(今は無職だけども)次のフェーズに進むための決断をできたこと

あの時死ななかった私、諦めなかった私、無理した私、泣きながら、死にたいと思いながら、それでも捨てなかった私がいたから

今ここで無職できてる!

風化も美化もしたくなくて、もっと苦しくならずに済む方法もあったかもしれないけど
あの頃の自分を、自分だけは、否定しないでいたい




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