嫌になる

星野源さんの小説が好きだ。
厳密には小説というより、エッセイが。
源さんの書籍はエッセイしか知らない。
(ごめんなさい。)

彼のエッセイ本『働く男』の中に
"「わからない」という正直さ。"
という章がある。

普段あまり映画は見ないという源さんが視聴した数少ないアメリカ映画のなかに、『ハート・ロッカー』という作品がある。主人公であるジェームズは傲慢で独立した考えを持っており、度々仲間と揉めながらも、次第に心を通わせていく、という物語だ。

そして彼は言う。
「僕は今まで見たどのアメリカ映画の主人公のセリフよりも、その一言が一番理解できたのだ。(星野源)


『わからない。なんで俺はこうなんだろうな。わからないよ』


うわあ…
めっっちゃわかる。
なんで自分はこうなんだろうと、何度思ったことか。出典に出典で、申し訳ないが、私はこの章にひどく共感した。

大学生になり、最近やっと自分の価値観が確立してきたように思う。高校生までの私は良くも悪くも愚直だった。目に見えるものを額面的に捉えて、疑うことを知らなかった。

それくらい恵まれた環境だったのも事実。
中高一貫校だった私は、6年間関わった先生たちが大好きだ。学校に行けば、本当に好きな人たちがたくさんいた。

大学生になり、まだまだ未熟ではあるが高校の時よりは物事を考える機会が増えた。頭の回転が早くないので、人一倍考えないと本当の意味で理解できないからだ。
友達にはよく、考えすぎる性格だねと言われる。自分でも分かっている。
でも、そういう私を好きだと言ってくれる友だちが、ありがたいことに私の毎日を彩ってくれている。(ありがとう。)


いつからだろうか、私は家族といる時の自分があまり好きではない。

家族のことは大好きなのに、
家族といる時の自分が嫌なやつに感じてしまう。

私は大学に入学してから、議論することの楽しさを知った。前述したように、高校ではあまりそういう機会がなく、ただ楽しく毎日を過ごしていた。

 大学で出会った友達は、物事を多角的に見て、心に問いを持つ人が多い。私はそんな皆を心から尊敬しているし、彼らと議論することが楽しくてしょうがない。道で見かけたおじいさんの話や、環境問題の話。くだらない内容から難しい内容まで、これまでいろんなことを議論してきたと思う。

そしてそのテンションのまま実家に帰り、「どう思う?」と、家族にも議論を持ち込んでしまう。そのときは、「なんでやろうね〜」と流れてしまい、しつこいと(もうなんでもいいじゃん)という空気にしてしまう。

あれ、私、高校生までどうやって家族と会話してたっけ。

もちろん、誰に対しても同じ自分でいるつもりはない。過ごす人によって、話す内容やテンションもその都度チャンネルを合わせて接する。
どの自分も私だと思うし、それ自体、悪いことだとも思っていない。

だけど、どうにも歯車が合わないのだ。

家族と話していて、自分の返答が"違った"ことに気づくたび、「やっちまった…なんで私はこうなんだろう」と悲しくなってしまう。

ここからは私の想像でしかないが、おそらく
「うちの子はいつからこんなに屁理屈マンになっちゃったの?」と思われているだろう。いや、思われているに違いない。(反語)

自分としては、大学生になってからの自分の方が好きで、成長も感じているのに、同時に家族との距離も感じ始め、こういうときどうするんだっけ、と日々もじもじ、うじうじしながら過ごしている。

私は、もっと自分のチャンネルの数を増やして、家族といる自分も好きだ!と胸を張って言えるようになりたい。
賢さや価値観を超えて人と関われる器を持った人間になりたいのです。

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