何の続きも生きない。
ただ今ここにしか存在していない。
そのことにふと気付くと、頭の中にあったあれやこれや、後ろ髪引かれてた何かの続きが、「オートで展開している“現実”」から「さっき消した焚き火の煙」くらいの何かになって、ふわっとその場から揺らいでいくのを感じる。
面白い。
面白いのはきっとそれが真実の方向のにおいがするからで、そんな風に思って、こうして文なんか書いてるうちにその感覚もまた煙みたいに過ぎてしまう。
一瞬だ。その時間を増やしたいのだけど。
もういい。その瞬間の話をする。
その一瞬はほんとうに素晴らしい。
自分だと思っていた、今まで生きてきた20数年、考え続けて大きな雲みたいになってる ほんとうはそんなに考えたくないこと、或いはさっき友達に貸しを作った600円、それが何かの幻か何かみたいになって、「この一瞬」の素晴らしさに釘付けになる。
それどころじゃなくなりそうになる。
なくなってしまえたらいいのだけど、そうやってまた、その何かを求めようとする思考の波に乗っかっても、その先はまた別の、いやもしかしたら近いがためにその分なんかややこしくなった、違う何かの雲に辿り着くんだろうなぁとぼんやり。
書いてる途中で気になったけど、600円はどうなんだ…?幻なのか…?どうなんだっけ。
これも波。
あぁ、常にいまここに。こうやって書いてる、言ってるうちに別の何かに変わってしまう、“それ”よ。
常にそこにいられたらな〜、いいのになぁ。
いられるときもある。負けるときもある。
最近は負けっぱなしだった。
波がでかすぎるときはどうしたらいいんだろう。
ちっぽけな自分にとっては津波みたいな、大きさが自分では測れないくらいの、大きく感じる波。
今回のことで一つ気付いたというか学んだのは、きっとその大きな波も、0地点から見れば、元は小さな波だったのだろうなということ。
だからその時に“気付いて”、相応しく対処が出来たなら、0地点に返すような事が出来たなら、その波はこんなに大きく育たず、“わたし”はまた元の位置に座っていられたのかもしれない。
それからもう一つ。
今回“気付いた”時には既に自分はあまりにちっぽけで、それに対する波の大きさにもう流されることしかできなかったけど。
「波が大きくなった」というのもあるけれど、それと同時に「自分も小さくなった」、「ちっぽけになっていた」。
自分も小さくなっていたんだ。そのことに、書きながら今気が付いた。
それは躁鬱だったり、そんな波の、バイオリズムのひとつでもあるのかも知れないけれど
自分から、じぶんが小さくなるような状況に、環境に、精神状態に、気付かぬうちに向かっていたのかもしれない。
そのふたつだ。
ちっぽけに感じる。その状況を作らない。
なるだけ、じぶんがおおきく広く、在れる様に心掛ける。
そして、0地点に還れたなら、
なるだけ“気付き”を絶やすことなく、何かよからぬ波が生まれたな、と感じたら…どうしよう。
ただ気付いていよう。そんでなるべく、0に返していける様に、そんな心の働きを、ハートかどこかにプログラムさせておこう。
そんな所で、どうでしょう。
そんなことを心に留めながらまたその都度やっていけたらええなと。そんな文章に仕上がったと。
何かありがたい。
文章書けたし、画面の外の、今に帰ろう。
プロプロッピ〜(頭の中の不細工な鳥の囀り)
また。