遺された五線譜④/12
未発表楽譜
今朝は先輩直伝の通話しているふり作戦を使って、最大最後の難関である煙草屋のおばちゃんポイントを無事に通過することが出来た。
ちゃんと忘れずに笑顔で会釈もしておいたから、悪い噂をまかれることもないだろう。
でもこの作戦、頻繁に使っているとすぐに怪しまれるのは間違いない。何かいい手を考えておかないとと思いつつ、ビルの前に自転車を停め階段を上っていく。
見えてきた扉のすりガラスからは明かりが漏れていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日は早かったね」
そういうあなたの方が早いじゃないですか。
先輩は日課となっている朝の珈琲を淹れようとしていた。
「今日は僕の方が早いと思ったんですけどねぇ。駐車場に青い車があったのでがっかりしちゃいました」
「デニムブルーメタリック!」
いけない、あの車を『青い』と言うと機嫌が悪くなるんだった。
黙って頭を下げておく。
「競争しているわけじゃないし、ゆっくり来ていいんだよ」
「どうせ暇ですしね」
「いつも言ってるでしょ、我々が暇なのは世の中が平和な証拠なんだから」
穏やかな笑みを浮かべながら二つのカップに珈琲を注いでいる。
たとえ些細なことでも、何か困った時に訪れるのが探偵事務所ならば、僕たちが暇であることは悪くないのかもしれない。
「そう言えばコンサートのチケットは手に入ったんですか」
マグカップを受け取りながら聞いてみた。
「うん。来賓用の特別席というのをいつもキープしているそうで、そこで聴かせてもらうことになったよ」
先輩はいつものソファに座り、お気に入りのマイセンのカップに口をつけながら新聞を広げている。
「完全におじい様のコネですね」
「なんたって名誉館長だからね」
僕の粘り突くような視線をカップで遮り、新聞から目を離さない。
ちょっとは後ろめたい気持ちがあるんですね。
でも、今回は事情があるから大目に見ますよ。
「美咲さんにはちゃんと連絡しました?」
「うん」
顔を上げてこちらを見た。
「喜んでいたでしょう」
すると困ったような照れているような何とも言えない表情をしている。
スパッと謎を解いているときの表情が嘘のよう。
いい大人なのにと半ばあきれながら、実はうらやましくもありつつ珈琲を口にした。
「あら」
新聞に目を戻した先輩が小さく声を出した。
「どうしたんですか」
「ほら、この前話していた岩見沢洋樹さん」
さすがに名前だけは覚えていた。忘れたりしたら先輩と美咲さんに白い目で見られそうだから。
「コンサートはその方の生誕百年記念だって言ってましたよね」
「うん。その岩見沢さんの未発表楽譜が見つかったんだって」
有名な作曲家なら、かなり話題性もあるんじゃないかな。
僕の思いを見越したように先輩が続ける。
「岩見沢さんの未発表曲なら世界中で注目を集めるだろうけれど……」
新聞を読み進めながら黙ってしまった。
「どうかしたんですか?」
「……うん」
読み終えると顔を上げ、マイセンのカップに口をつける。
「偽物じゃないかって声が多いらしい。旋律の一部分だし、作風が明らかに違うって。でも奥様がご主人のものに間違いがないと言っているそうだ」
「見つけたのも奥様ですか」
「そう。だからコンサートに注目を集めるためじゃないかとも言われている」
「ふーん。有名な方なんだし、チケットも売れているならわざわざそんなことをする必要がない気がしますけど」
「鈴木くんの言う通り、僕もそう思うよ」
そう言うと先輩は口を閉ざし、また新聞へと視線を落とした。
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