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遺された五線譜⑫/12

立ち位置

「えぇっ、今回の件は無報酬だったんですか!?」
 丁重すぎるほどの奥様からの御礼を受けて岩見沢邸を後にし、車に乗り込んでから衝撃の告白を聞いた。
「当然でしょ、こちらからお願いしたことなんだから」
「そりゃそうかもしれませんが」
 このあたりが大企業の御曹司なんだよなぁ。いくらエムケー商事から補助が出ているからといって、仕事なんだから少額でも報酬を受けるべきなのに。
「奥様にもあんなに喜んでいただけたし、よろしいじゃありませんか」
 助手席の美咲さんからもそう言われちゃうと、まぁいいかという気になってしまう。僕の給料が減らされるわけじゃないし。
「今回は鈴木くんに助けられたね。いい観察眼だったよ。ありがとう」
 先輩が解いた謎を解き直すのではなく、今回は一緒に解いたという充実感がある。僕はただ思いついたことを並べただけだけれど、それが助手としての役目なのかもしれない。
 と思ったら、後ろを振り返る美咲さんの視線が突き刺さる。そんなに敵視しなくてもいいのに。

 いつもの駐車場にデニムブルーメタリックのボルボV40を停め、三人で事務所へ向かった。
「謎も解けたから、先輩が淹れてくれる美味しい珈琲で乾杯したいですね」
「お酒じゃなくて?」
「まだ昼間ですから、お酒はいけませんわ」
 ここ数日の緊張感からも解放されて、足取りも軽くなった気がする。そこへ背中から何やら突き刺さる視線を感じた。美咲さんは前を歩いているのに……。
 振り返ると、煙草屋のおばちゃんが怖い顔をしてこちらをにらんでいる。
 やばい、この前無視したことをまだ怒っているのかも。
 ひきつる笑顔で会釈しながら事務所へと急いだ。

「豆から挽くので少し時間が掛かるよ」
 奥のミニキッチンへ先輩が姿を消すと、美咲さんがあらたまった様子でこちらを向いた。
「鈴木さまは、耕助さまのことをどう思っていらっしゃるのですか」
 どうって言われても。
「いい人だと思いますよ。ちょっと素直すぎるくらいな一面もあって、僕が手助けしてあげなきゃって気にもなります」
「私は幼いころからずっと耕助さまを見てきました。たまたま近くにいただけの存在かもしれませんが、耕助さまへの思いは変わりません。鈴木さまには負けませんから」
 見ていれば分かりますよ、あなたがどれほど先輩を思っているのか。
 ん? なぜそこに僕が出て来る?
 美咲さんはといえば目をウルウルさせている。まさか……。
「いや、そんなつもりはないですよ。美咲さんの勘違いです!」
「何が勘違いなの?」
 三人分の珈琲を持って先輩が戻ってきた。
 ここで話すと余計にややこしくなりそう。
「別に何でもありません。今日の珈琲もいい香りですね」
「でしょう? 特別にブルーマウンテンを乾杯用に淹れたからね」
 先輩をごまかすのは珈琲を褒めるに限る。
 それにしても美咲さん、僕にはそんな趣味はありませんから。早く誤解を解いておかないといけないなぁ。

      *

 結局その日は彼女と二人で話す機会もなく、誤解されたまま解散となった。
 美咲さんが僕に向けていた敵意は助手の座を狙ったものじゃなかったんだという安堵と引き換えに、かえって面倒なことになった気もする。
 会う機会が少ないからこじらせかねない。
 翌朝、事務所へ向かう自転車を走らせながら彼女への対策を考えている間に煙草屋が見えてきた。
 こちらも早いうちに何とかしておかないと。
「おはようございます」
 自転車を停めておばちゃんに声を掛けると、僕の顔を見て厳しい顔つきになった。
「先日はすいませんでした。話に気を取られて挨拶もしないで」
 おばちゃんは表情を崩さず、声を潜めて言う。
「あんた、大変だね。大丈夫なのかい?」
「え、何のことですか?」
「いいんだよ、あたしには全部分かっているから。三角関係なんだろ?」

 まさか美咲さん、おばちゃんにまで話したのか!?
「先生にはあたしから言ってあげようか」
「いや先輩はまだ知らないので……」
「そんなもん、早く言ってしまえばいいんだよ。僕の彼女です!って」
 へ? 僕の彼女?
 おばちゃんも勘違いだよっ!
「違うんです、あの人は僕の彼女じゃなくって――」
 あぁ、こんなことなら難解な暗号に頭を悩ませてる方が良かったかも。


―遺された五線譜 終わり― 


マガジン表紙2


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