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① 中学、高校時代、そして、父の死

いつから何がおかしくなった、というのは
正直なところ分かりません。

何故そうなったか、
それがわかっても摂食障害を治す薬も手術も無い訳で、
とにかく治すのは自分なのだ。

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【 中学時代 】

中学の定期試験の順位は、
学年13位からスタートし、
8位、5位、3位、
そして、憧れだった1位になり、
私はそれを必死にキープした。

毎回試験二週間前には、
トータル120時間は勉強していた。

自分の脳内で、
「私は1番であるべきだし、1番でなければならない」
勝手にそんなふうに考えていたのかもしれない。

何故1位に拘ったかというと、
区内の各学校からの代表が行ける、
「カナダ留学」にどうしても行きたかったからだ。

そのために、生徒会役員の選挙も出馬し、
当選した。
とにかく中学時代は努力していた。

そんな私は
当然学区内でも上のランクの進学校へ進んだ。

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【 高校時代・父との別れ 】

当時は「ルーズソックス」が流行っていた。
私は早速憧れだったルーズソックスを履いて入学式へ出席した。

学年で初日にルーズソックスを履いていたのは数名、
クラスでも2~3名くらいだった。

そして、髪も茶髪にした私は、
当然、浮いていたかもしれない。

私は男女の双子で、
弟の入学式も同日だったため、
私の入学式は父が、弟は母が出席した。

他のみんなはお母さんが来ている中で、
自分は父が来ているというのが凄く嫌で、
せっかく会社を休んで来てくれたのに、
父には酷く冷たい態度をとってしまったのを覚えている。

思い出すと胸の奥がツンと痛くなる。
ので、正直あまり思い出したくない。

謝ってももう遅いのだが…

高校へは、
毎日ayuを聴きながら、
夏の暑い日も、雨の日も、
父の買ってくれた電動自転車に乗って毎日通学した。

高校時代は学校帰りに友達とマック行ったり、
夜もマックを食べたり、お菓子を食べたり、
今ではそんな事したら死にたくなるような食生活をしていた。

夜、
自宅で何かをつまんでいると
母親が私に、

「その一口がデブになる」

と声をかけるくらい食べていたし、
少なくとも、
今より健康的と言える体型だったのではないだろうか。

身長158cm、体重55kg位あったと記憶している。

とはいえ、
周りからデブなどと言われたことは無いし、
特にダイエットしようという気は頭にはなく…。

私は放課後は部活はせずに、
週に何日かスーパーのレジのアルバイトをしていた。

父は何度か私がバイトしている時に
わざと買い物に来てくれたりした。

日曜日、父と母が店に来て、
父がカートを押しながら
何度も私のレジの近くを用もないのにサーっと通り過ぎたり…。
思い出すと笑ってしまう。

そんな父は、
私が高校2年生の時、
肺がんの告知を受けた。

1度目の入院をし、
手術を受け、成功して退院した。

退院後、
父はなかなか仕事復帰せずに寝込み、
母が仕事で帰宅が遅くなる日が続いた。


ある日、
「またお母さん遅いのか」
と言った父に私は
「パピーがいつまでも仕事行かないからだよ!」
とついボヤいてしまった。

その時は、
父がどんな具合だったのか、
全く分かっていなかった。
手術してすっかり良くなったと思っていた。

その数日後、
私が学校帰りにショッピングモールで寄り道していた時、
どこからか激しい咳が聞こえた。

どこかで聞いたことあるなぁと振り返ったら、
それは父の咳だった。

ベンチに座り込んで、
ゴホゴホゴホっと、
今にも死にそうな咳だった。

さすがに声はかけられず、
あぁ、まだ身体辛いんだ。
酷いこと言っちゃったかな…
と反省した。

その後、
父は仕事に復帰した。

が、
私が高校3年の春頃から父は最後の入院をした。

リンパからほぼ全身に転移し、
もう今回は手術ができない、
長くは無いかもしれないと、
うっすら聞かされていた。


しかし、
それは目に見えてわかった。

父の「死」が近づいているのは
高校生の私でも分かった。

私はバイトのない日は
帰りに父の病室で学校の予習をして帰った。

父が病室に居なくて探すと、
大概、1階の喫煙所で喫煙仲間と仲良く談笑していた。

後でわかった事だが、
父は喫煙所ではちょっとした人気者だったらしい。

肺がんで入院しているのに言語道断、
と思うが、
なんと言うか、もう仕方ないというか…。

我慢したところで治るわけでもなし、
たばこを吸えない方が本人は辛いのかもしれない…
と、周りは目を瞑った。

そして、
父の体が少しづつ
「生」から離れていくのがわかった。

お腹や足の浮腫が出てきて、
水が溜まったら穿刺する。

その繰り返し。

顔は痩せこけてミイラのようだった。

パジャマもブカブカ、
なのに足は浮腫んで破裂しそうな風船のようだった。

その頃は浮腫が痛いのを知らなかったが、
その浮腫の状態でも
父は喫煙所に顔を出していた。

(私も数年後、摂食障害により浮腫を体験する事になる)

父は、
最後の方はタバコを吸う力もなく、
ただそこへ行くだけだった。

声も弱々しくなり、
息のような声になっていた。


「お父さん、〇〇の成人式までは生きられないかもしれないなぁ…」

と言われた時は、
返す言葉が見つからなかった。

だんだん痛みが強くなってきて、
モルヒネを打って意識が朦朧とするようになった…。

その頃、
「もう長くないから行ける時にお見舞い行ってね」
と母から言われた。

ある日、
一度も父のお見舞いに行こうとしなかった弟が珍しく
「今日、ねーちゃんが行く時一緒に病院行く」
と言ってきた。

私は放課後は接骨院通いで、
その後18:30過ぎに一緒にお見舞いに行く事になった。

弟と病院に行こうとした時、
母からの電話が鳴った。

何故か嫌な予感がした。

まさか、と思った…。



父が亡くなった




享年52歳、6月30日、父は他界した。
父の誕生日6月25日の5日後だった。

父を看取る事が出来なかったからか、
私は父の死を受け入れられていない。
事実としては認識しているのだが…。

その瞬間を見ていないから、
父が死んだのにまだ生きているような感覚があるのかもしれない。


今の時代のように医学や薬が発達していたら、
もしかすると父はもう少し生きられたかもしれない。

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そして、
生活が大きく変わったのは
父の死がきっかけだった。



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