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「イジーさんに連れられて」第十四話

 隠し通路を抜けた先は書庫の片隅。
 ここで松明を落とすと大惨事になるので、明かりは再びランプに戻して出入り口を探す。

 当然のように鍵はかかっていたが、内側から開ければ施錠は無意味。ドクサを引き連れて廊下に出ると、遠くに見張りの明かりが見えた。
 ランプを点けていてはすぐに発見されるので、イジーは火を吹き消す。
 そして頭の中に入っている城内の構造を手探りに引っ張り出し、監視の目に触れないように足音を忍ばせて廊下を進んだ。

 どうやら見張りの兵士は、巡回ルートが決まっているようだ。警備体制に滞りはなく、次の兵士が来るまでの間隔は極端に短い。本来、非戦時の守備隊は数が少ないはずなのだが、やはりディアバシスの領主の一件がここにも響いているようだった。

 それらの視線を全て避けて、闇雲に探索しては日が明けてしまう。レクシー奪還の機会が狭まることだけは避けたかった。
 よってイジーは、できる限りレクシーが捕えられていそうなポイントを絞り込んだ。

「捕虜を連れて行くなら地下牢が基本だが、そもそも貴族に献上するのが目的なら、わざわざ城に来る必要はない。となると、レクシーの歳でこんな想像はしたくないが、どこかの寝室に宛がわられてる可能性も考慮しないとな……」

「どうしてそんな場所にレクシーを? 子守唄でもしてもらうのか?」

 素朴なドクサの疑問。
 イジーは苦々しい表情をしながら、曖昧にはぐらかす。

「まあ……寝るため……だろうな」

「変なの。大人の癖に、一人で寝れないなんて子供みてぇだ」

「別に全員が大人じゃないけどな。たしか王子は五、六人いた気がするし、末っ子はドクサと同じような歳のはずだ」

「あっ、そっか。クソみてぇな皇帝にだって、子供はいるんだよな」

 ドクサは当の皇帝の暮らす城内で、さらっと不敬罪を口にする。
 その度胸というか、神経の図太さにイジーは失笑を禁じ得なかった。

「ところでドクサ、ロープ無しで壁は登れるか?」

 イジーとドクサは物陰の暗闇に身を潜め、素早く作戦を立てる。

「足かけるとこがあれば余裕だぞ。母さんに習って、そういうの得意だから」

 ドクサは頼もしげに胸を叩いた。
 その台詞に、イジーはちょっとした疑問を呈する。

「ん? そういうのって、だいたい父親が教えるものじゃないのか?」

「母さんは山の生まれだから、運動神経だけなら父さんよりすごかったんだぞ」

「へえ、騎士より。それじゃ夫婦喧嘩したら大変そうだ」

「そりゃもう、いつも母さんが父さんのことボコボコにしてたぞ」

 ドクサは当時を思い出すように笑うが、声を出すと見張りにばれるので、すぐに両手で口元を覆っていた。

「それじゃあ城の間取りは、さっき話した通りだ。覚えてるか?」

「たぶん、大丈夫だ」

 ドクサは記憶を思い返すように頷いた。

 オクトス城は、おおまかに六つの区画に分けられている。
 見張り台の役目を持つ東西二つの塔。東側正面門の近くの兵舎。オクトス城を形作る、皇帝の暮らす北部の居館。
 そして現在イジーたちのいる、西側の宝物庫や武器庫のある別館だ。

 まずは中庭に出て、身を潜めながら居館を目指す。
 そこで外壁を上り、小部屋や寝室を窓から覗いてレクシーを探し出すのだ。もし発見できなかったときは、イジーだけが残ってドクサ一人を帰らせる予定だが、それはまだ心の中にしまっておく。きっと素直に聞き入れてくれないだろうし、最悪の想像をしておくのは一人だけで十分だった。

 二人は見張りが離れるタイミングを見計らい、すぐ近くの窓から外に出た。
 別館の横は庭園が広がり、そこにもまた兵士たちの巡回がある。だが逃げ道の少ない廊下に比べれば、そこは至って開放的な空間。難なく見張りの目を掻い潜ると、正面に見える外廊下の柱を登っていく。

 順調にこれを上がりきると、屋根伝いに進んで居館の外壁を目指した。
 下ばかりを見張る兵士たちは、なかなか上まで気が回らない。窓から見られれば大胆に月夜に姿を晒す二人のことも、誰一人として気づく者はいなかった。

 あとは物音に注意をしながら、手分けして居館の窓を順に巡っていくだけ。
 その中でも明かりの灯った場所や、不審な声がする部屋を重点的に探せば、自ずと答えは絞られていく。

 イジーは東側、ドクサは西側に散って外壁によじ登った。

 しかし当然まともな足場など存在しない。足がかけられるのは窓の出っ張りや、石材が朽ちて穴の空いてしまった個所ぐらい。これを闇夜で探り当てるのは難しく、仮に足を踏み外せば地上まで真っ逆さまに落ち、即座に見張りが飛んでくるだろう。

 この命がけの壁登りに、けれどイジーもドクサも恐怖など覚えていなかった。
 なぜなら、二人にはレクシーを救うという目的がある。これを果たすためなら、どんな困難が目の前にあろうと挫けることはない。
 それが、自らの命と引き換えになることだとしても――

「……この部屋は?」

 いくつか窓を覗いたイジーは、ふと一つの部屋の前で動きを止めた。

 そこは室内が何十本もの蝋燭で照らされている。壁際には棚が列を成し、飾られているのは何の一貫性もない、ガラクタ染みたものばかり。それだけでも一種異様だが、加えてここだけ鉄格子がはまっていた。

 他の部屋は雨戸が締められていたので、いちいちそれをずらして内部の様子を伺っていたのだが、ここはその手間がなかったのである。
 イジーがよく目を凝らすと、誰かの後ろ姿が見えた。
 装いは修道女。椅子に座っており、その膝に別の誰かを乗せている。おそらく子供。
 どこか見覚えのある感じに、イジーは目を細めて視界に集中した。

「……レクシー。それと、ミス・エリッサ」

 イジーは二人の正体に気付いた。

 ずっと背中しか見えなかったが、少しだけ動いた子供が顔を見せると、それは紛れもなくレクシーだった。椅子に座った女性の横顔も、エリッサその人で間違いない。
 どうやらこの部屋こそが、イジーとドクサの目的地だったようだ。

「ミス・エリッサ……貴女の願いは、何を目指しているんだ」

 イジーは今ここに至って、虚しさのようなものを覚えた。

 これまで信じていた遥かなる園は仮初の姿。実際は権力者たちの欲を満たすために、子供に歪んだ未来を与える場所。

 以前、イジーは一度だけ男の子を送った。ジャン。浮浪児で、ゴミ箱を漁って下水溝を渡り歩く生活をし、心は荒んでいた。そのせいか、最後までイジーとは打ち解けてくれなかったが、彼の幸せを願う気持ちは片時も忘れたことがない。

 けれどその子はすでに、遥かなる園に在籍していなかった。

 この仕事を始めた頃にも、イジーは誤った組織に子供を連れたことがある。
 あとで奴隷商人の集まりだと知ったときには、もう遅い。イジーが運んだ子供は、どこか遠くに売り飛ばされていたあとだった。

 その後悔は未だ消えず、罪の意識が心を焼き続けている。

 自分の行い一つで、子供の幸せを永遠に奪ってしまった。
 それは耐えがたいほどに胸を焦がし、償い切れないほどに重たい十字架として今も残る。

「レクシー……待ってろよ」

 イジーは音を立てないように、そっと壁を下りてドクサとの合流場所に向かう。
 窓からの侵入は難しいので、部屋に入るには内部から行く必要があった。

 そのため片方がレクシーを発見したら、必ずもう片方に知らせる。焦って相手に気づかれ、別の場所に移されるのを避けるためだ。そして、しばらく居館の入り口が見える外廊下の柱の物陰で待っていると、無事にドクサと合流を果たす。

「どうだった? オレの方はダメだった……」

「安心しろ、レクシーの居場所は掴んだ。今からそこに向かう」

 イジーが朗報を伝えると、ドクサはパッと頬を緩める。

「ほんとか? ようやくレクシーのこと助け出せるんだな」

「待て待て、嬉しいのは分かるが静かにしろ。見張りに気づかれたら全部台無しだ」

 イジーはドクサをなだめるが、見張りの明かりはまだ遠い。
 あくびをする余裕すらある辺り、よほど侵入者に対しての警戒は薄いようだ。その油断が二人にとっての好機であり、動くならこの瞬間だった。

 差し当たって正面は監視の目が厳しいと判断し、向かったのは給仕係が利用する裏口。
 そこは目立たない箇所に設けられているためか、表ほど警備が厳重ではなかった。椅子に座って見張りをする兵士は、まるで緊張感がないように半分眠りこけている。

 普通こういう場所ほど警戒するものだが、城の中だと思って油断しているようだ。
 こういう人間に守られては皇帝も堪ったものではないと思う反面、同情する気持ちはまったくなかった。

「……なあ」

 眠る兵士の横を無事に抜けて台所に入ったとき、おもむろにドクサが口を開いた。

「どうした、何か問題か?」

 イジーはどんな事態にでも対応できるように、神経を張り巡らせる。
 だが、ドクサが放った言葉は少々気が抜けるもの。

「窓から見たんだけど、貴族って寝るとき裸になるなんだな。オレ、初めて知ったぞ」

「裸族ってやつか? それは人によると思うが」

「そうなのか。でもあいつらバカだな。服脱げば寒くなんの分かるくせに、わざわざいっしょに寝てるヤツと、ガタガタくっついて――」

「ドクサ。静かに行くぞ」

 イジーは何も言及せず、純粋無垢なドクサを引き連れる。


 居館は皇帝の寝所がある建物であり、別館以上の警備体制だったが、目的の部屋には思いのほか早くたどり着くことができた。
 理由は不明だが、都合よく見張りが離れて行ってくれたのである。

 まるで罠へと誘い込まれる獣のような気持ちを味わうが、危険は元より承知の上。
 いくつかの退路を頭の中に用意し、イジーはその部屋の扉にそっと手をかけた。

「この先だ。待ち伏せはないだろうが、念のためドクサは俺の後ろにいろ」

「ああ……良いぞ」

 二人は心臓の高鳴りを抑えながら、いざレクシーの待つ部屋に足を踏み入れる。

『……?』

 しかし二人が目にしたのは意外な光景だった。

 その室内はイジーが窓の外から確認したものとは違う。
 素朴なベッドや暖炉の置かれた居住スペース。奥に扉がもう一つあるので、おそらくそこにレクシーがいるのだろう。

 イジーたちがそちら進もうと、足を踏み出したとき。

「――ういっいっい。ようこそ。ボクの部屋に」

 部屋の隅から声がした。

 そこにゆらりと突っ立っていたのは、道化師の衣装を纏うジェスタだった。
 手に火の点いたパイプを持ち、口から煙を吹いている。

 白塗りの顔を大きく歪めて、イジーとドクサを交互に見やった。まったく狼狽えない様子から、二人の襲来はあらかじめ予見していたらしい。

「やっぱり小僧、戻ってきたね。それもお仲間、引き連れて」

「レクシーはどこだ!」

 飛びかからん勢いで、ドクサは前に歩み出ようとする。
 イジーはそれを制止しつつも、自らジェスタに向ける視線は刃のように鋭い。

「ジェスタ・ジェスタ、そこで大人しくしていろ。事を大きくするつもりはない」

「ういっい。余裕なの? ボクが叫べば、みんな来るよ。ヲマエら、すぐに捕まるよ?」

 脅しのつもりか、ジェスタは優雅にパイプをふかしてうすら笑う。

 けれどイジーも、生半可な気持ちでここに立ってはいない。普段は決して表に出さない感情を垣間見せるように、低い声でジェスタに言った。

「……なら、その前にお前の口を塞ぐ」

「おお怖い。キュクロスって、そんな物騒なんだ」

 イジーの殺意を受けて、ジェスタは軽く身震いした。

「死ぬのは嫌。だから、ここは静かにするね」

 どこまで本気か、掴みどころのない調子でジェスタは口を閉じた。
 イジーはキュクロスではないが、それでハッタリを利かせられるのなら、ここは大いに有効活用させてもらう。

「ドクサ、奥の部屋を見てきてくれ。俺はこいつを見張ってる」

「分かった」

 ドクサは頼もしく頷き、扉の方へと向かった。

 それを待つ間に、イジーはジェスタを見据える。
 サーカスにいた頃の思い出を、イジーは鮮明には覚えていない。仲間たちを殺されたトラウマが、記憶を侵食していったのだ。
 けれど情報屋の言ったことが正しければ、ジェスタは間違いなく裏切り者。
 この男のせいで、命の恩人の座長や気の良い大人たち、そしてたった一人、自分と同じ子供だった、あの少女は――

「一つ聞く。お前はなぜサーカスを帝国に売った?」

 沸き立つ感情は怒りだろうか。久しく忘れていた衝動に、イジーは身を任せる。

 一瞬、呆けた顔をするジェスタは、合点がいったようにくつくつと笑みを浮かべた。

「そっか、そっか。キュクロスからすれば、サーカスって、理想の姿そのものだものね。興味ある? ボクがサーカス、抜けた理由?」

「ああ。聞かせろ」

「ういっいっい。教えても良いよ。でも、ヲマエなんかに、ボクの気持ち、分からないだろうね。言っても、たぶん、無駄だと思うよ」

「御託はいい。俺の気が変わらない内に話せ」

 余裕な態度の道化師に、イジーは苛立ちを募らせる。

 しかしここで感情に任せてこの男に手を下したとしても、失った過去は戻らない。それよりも事件の真相を知ることこそが、イジーが生き残った証となる。

「せっかちだね。急ぎ過ぎると、人生損するよ。まっ、ボクには、関係ないけど」

 ジェスタは手に持っていたパイプを吸い、ゆっくり深呼吸しながら語り始める。

「ボクだって、最初の頃は、サーカスに憧れてた。みんなみたいに、正義のために、戦ってたんだよ。でも、ハッキリ言って、あいつら単細胞だった」

「なん……だって?」

「能無し、だよ。世間じゃサーカスは、弱きを助け、強きを挫く善人ね。でも、実際は、単なる偽善者の寄せ集めだったの。サーカスを仕切ってた、座長ってのがいてね。あいつこそ、諸悪の根源」

「……座長が?」

「そう。座長はね。誘拐された自分の娘、ずっと探してただけ。人助けなんて二の次。ずっとずっと、私利私欲で動いて、周りは妄信するように、そこに賛同してたの」

「座長に子供が……初耳だ」

 若干の戸惑いを得ながらも、イジーは斜に構える。

「けど、それの何が悪い?」

 イジーはジェスタの言動に、何の共感も抱けない。
 子を想う親の気持ちを考えれば、それはごく自然な行動のはずである。

「分からない? 座長は当初、娘を見つけたら、サーカス、解散するつもりだったの。でも予想以上に、人が増え過ぎた。引くに引けなくなった。だから、サーカスを続けた。義勇兵の真似事、やりたくもないのに、続けてたの」

「そんなわけあるか。座長はいつだって、人のためになる生き方を選んでいた」

「ヲマエ如きが、何を知ってる? サーカスに、憧れ抱くのは勝手。だけどボク、嘘なんかつかない。サーカスは、欺瞞に溢れてた。それを認めたくないなら、教えてあげる」

 ジェスタはふっと肩の力を抜き、その瞳に映した全てを語る。

「座長の娘は、とっくに死んでた。座長は、大切なものを、救えなかった。だから罪滅ぼしの真似事、したかったんだね。帝国を恨むフリして、大勢を巻き込みながら、死に場所を求めてただけ。革命を起こす気なんて、さらさらなかったの。討ち死にすれば、誰にも責められないものね。自殺の手伝い、してたなんて、文句も言われないものね」

「……」

「だから、ボク、手伝ってあげた。皇帝に、サーカスの反逆、教えてあげたの。そのおかげで、座長たちの末路は、みっともない死に様。火に焼かれ、逃げ惑って、取り囲まれてメッタ刺し。あーあ、哀れだよ。哀れ、哀れ、ういっいっい」

「……ジェスタ」

 引き金は思ったよりも緩かった。

 これ以上、眼前の白塗り男の声を聞きたくない。寝食を共にした仲間たちを嘲るジェスタは、この世に存在してはならない悪鬼だ。

 イジーは迷いなく、腰のナイフに手をかける。

 これに気づいたジェスタは、若干表情を引き攣らせるが、顔から笑みは引かない。

「ボクのこと、殺すの? 良いのかな、良いのかな。ボク、キュクロスに有益な情報、いっぱい持ってるよ」

「残念だが、俺はレジスタンスじゃない」

 思いがけないイジーの告白に、ジェスタは初めてその表情から余裕を消した。

「……え?」

「言ってなかったか? 俺は単なる人攫いの悪党だ。お前がどんな情報持ってようが、そんなこと俺の知ったことじゃない」

「ま、待って、ヲマエ……」

 ジェスタは慌てふためくように、手元からパイプを落とす。

「ボクは、皇帝のお気に入りなの。ボク殺したら、帝国のこと、敵に回すことになるよ。そんなの嫌でしょ? 最悪でしょ?」

「どっちにしても俺は無法者だ。日陰で生きていくのには慣れてる」

 ナイフに手をかけたまま、イジーは一歩ずつジェスタに歩み寄る。

 辺りをキョロキョロするジェスタは、逃げ場を求めて後ずさった。
 しかしそこは壁。袋の鼠である。

「やめ、やめて。ボク、殺しても、メリットないよ。ただの哀れな、道化師、なんだよ」

「ピエロなら最後まで笑ってろよ。お前のように、サーカスのみんなは二度と笑うことができないんだよ」

 イジーは鞘に入ったナイフの柄を回転させる。

 奇しくも座長からもらったトリックナイフを、こんなことに用いるとは思わなかった。

 弱き人々のために生き、自分を救ってくれたサーカスの者たちに、何も報いることのできなかった贖罪。それが今この場で果たせるのなら、イジーは鬼にも蛇にもなろう。

 ナイフを抜き、白刃を露わにイジーはジェスタに迫った。

 ジェスタは腰を抜かして、その場で尻餅をつく。
 壁に背中を張り付かせ、ひっくり返った蛙のようにジタバタした。

「ひ、ひぃい! どうして誰も来ない! ボク、たしかに、呼んでおいたのに!」

「人望がなかったんじゃないのか?」

「おた、お、おたお助けを……っ」

「お前に、その価値はない」

 イジーは右手を振りかざし、その刃を持ってジェスタを貫こうとした。
 
「――お待ちください!」

 そのとき、奥の部屋からエリッサの声が響く。

「……っ!」

 ハッとして、イジーはジェスタの目前でナイフを止めた。

 視線だけ扉の方に向けると、エリッサの隣にはドクサとレクシー。微かに怯えた眼差しで、イジーのことを見つめている。

「子供たちの前で、殺人など行ってはいけませんわ」

「……ミス・エリッサ」

 いかに聖職者の装いをしていても、エリッサはジェスタの仲間だった。
 今さら言葉を聞く義理もなかったが、確かに子供たちの前で血を流すのはイジーも避けたい。

 イジーはいったんナイフを持った手を降ろす。
 そして頭を抱えるジェスタを尻目に、エリッサに問いかけた。

「貴族たちが、本当に子供を幸せにすると思っているんですか?」

「ええ……他に、私にできる方法はありませんでした」

 胸のロザリオを握り締め、エリッサは胸の内を吐露する。

「ジェスタ様の財は、取引によって得ているものが多くあります。遥かなる園を存続させていくには、どうしても貴族に引き渡す子供が必要でした」

「それを、悪だとは感じなかったんですか?」

 イジーは厳しい視線で、エリッサを射竦める。
 口の中で言い淀むエリッサには、やはり罪悪感はあったらしい。イジーから目を逸らして返答に詰まっていた。

「……あ、あの」

 そのとき、レクシーがこの場で声を上げた。

「怒らないで。マザー・エリッサは、悪い人じゃないよ」

「レクシー……けど、彼女は」

 幼いレクシーの倫理観に、イジーは心が揺れ動く。
 まだ無垢ゆえに、レクシーはエリッサの犯した過ちを理解しきれていないのだ。

 レクシーから見れば、エリッサはジェスタに脅されていただけの被害者。 
 それが間違っているとは一概にも言い切れなないが、利用された子供たちのことを考えれば、安易に許すとは口にできない。

「なあ、オレからも頼むよ。もうそれ以上、エリッサのこと責めないでくれないか」

「ドクサ、お前まで?」

 イジーは愕然とする。
 ドクサがエリッサに対しても憤っていた旨は聞いていた。それをこの場になって、正反対の意見を持ち出してきたのである。それはレクシーの影響があったようだ。

「オレだってさ、エリッサのことは許せねぇ。でもよ、さっき見たんだ。エリッサ、ずっとレクシーと話をしてて、怖がらせないようにしてくれてた。それに遥かなる園にいたときだって、他のみんなからいっぱい慕われてた」

「それはお前たちを騙すために……」

「オレはそう思えねぇんだ。ほんとにエリッサが悪かったら、あんな優しい顔できない。レクシーがこんなに心を開くはずない。それにさ、エリッサがいなくなったら遥かなる園にいる子供たちはどうなるんだよ。また孤児に戻るのか? そんなこと、オレはさせたくねぇんだ!」

 強い熱意を持って、ドクサはイジーに訴える。

「だからさ、エリッサのこと許してやろうぜ。人を憎むのは簡単だけど、まずは自分から信じてやらないとダメなんだ。そうだろ? レクシー」

「うん。お母さんがよく言ってたもんね、お兄ちゃん」

「こんな私のために……二人とも……」

 これを聞いていたエリッサは、感極まったように目元を押さえていた。
 決して許されない道を歩んできた自分に、ここまで言ってくれる相手に良心が痛んでいるのだろう。それはきっと彼女がこれから先、永遠に向き合わなければならない罰だ。

「ちっ、ここでお前らの言葉を無視したら、俺の方が悪者になるな」

 肩から力を抜き、イジーはエリッサを見据えながら言った。

「貴女の罪は許されません。でもそんな貴女の裏側を見ずに、安心して子供を預けた俺にそれを責める権利はない」

 犯した過ちは、イジーも背負うべきもの。

「もう一度だけ、信じてみても良いですか? ミス・エリッサ」

「……っ」

 エリッサは嗚咽を漏らしていた。
 そこにあるのは反省と償いの念。子供たちが支えてくれる限り、彼女が再び道を違えることはないだろう。

「……だが、こいつだけは許す気にはなれない」

 イジーはジェスタを見下ろしながら呟く。

 ジェスタがいる限り、エリッサが解放されることはない。
 曲がりなりにもジェスタによって、エリッサは路頭に迷わずに済んだのだ。その恩義が少しでも残っている以上、彼女はこの男に逆らうことはできない。

 ならば、ジェスタが消えれば当面の問題は解決する。
 この場にいる全員にとって、この男は諸悪の根源だった。

「オレは良いぞ。オレだって、そんな奴のこと許せる気はしねぇしさ」

 ドクサは率直な意見を述べるが、レクシーからは不安の声。

「オジサンのこと……殺しちゃうの?」

「いや、お前たちのおかげで目が覚めたよ。こんな奴を殺したところで、このナイフが穢れるだけだ。それよりもキュクロスに引き渡した方が有益だろうし、こいつにとってちょうど良い罰にもなる。あそこの拷問は過激って聞くしな」

 若干のやせ我慢は入っているが、復讐をしたところで残るものはないのだ。

 仮にジェスタの言葉通り、サーカスが偽善を掲げていたとしても、それを続けていったことは紛れもなく正義。
 自分たちの命を投げ打ち、無辜の民を救い続けること。
 それは私欲で塗られただけの人間には、決して成すことのできない真の偉業である。
 それを示すように、イジーはナイフを腰に戻しながら柄を回転させた。

「レクシー、俺の鞄にロープ入ってないか? 早くこいつのこと縛り上げて、さっさと城から脱出――」

 イジーが、レクシーに縄を要求した瞬間だった。

 大気が激しく鳴動した。
 けたたましい爆音が城内に響き渡り、窓の外に閃光のような輝きが広がる。

「な、何だ……っ!」

 雷が落ちたような轟音に、イジーらは身を竦ませて怯んだ。

「う、ういっい!」

 しかし、その中で一人だけ動いたジェスタ。
 飛び跳ねるように立ち上がると、そのままイジーの脇を通り抜ける。そのすり抜けざまに、腰からナイフを奪い去っていた。

「あっ! 危ない!」

 ドクサの叫びが木霊した。

 イジーは背中に衝撃を覚える。
 鈍い痛みが後背に刺さりながら、遠くに高笑いするジェスタの声を聞いた。

「くっ……」

 イジーはよろけて膝をつき、床にコロンと落ちるナイフを見た。
 そこには、白刃を潜めた木製の鞘だけが転がっている。もし殺意に支配されたまま、トリックナイフの柄を戻していなければ、間違いなくイジーは重症を負っていたはずだ。

「お、おい!」

 ドクサたちは慌ててイジーの下に駆け寄った。

「イジー様……っ」

 エリッサもイジーの身を案じて具合を見るが、そこに傷は存在しない。

「ああ、油断したけど助かった……これも座長と、お前たちのおかげってとこか」

 ドクサたちも、ほっと胸を撫で下ろしていた。
 イジーは部屋から逃げ出したジェスタを気にかけるが、今から追っても間に合わない。

 それよりもいったん窓に近づき、外の様子を窺ってみる。

 どうやら別館の方角から、火の手が上がっていた。
 場所は武器庫の辺り。火薬に引火したのだろうが、なぜこのタイミングでそのようなことが起きたのか、原因の検討もつかない。

 外回りは騒然としており、巡回の兵士たちが火事を食い止めようと右往左往している。

「……何にせよ、運が良い。今の内に城から出るぞ」

 イジーはドクサとレクシーを促すように脱出の算段を練る。

 来た道である図書室は、騒ぎの渦中である別館だ。あの中を潜り抜けるのは難しいだろう。他に利用できそうな隠し通路を、脳内の地図で思い返していたとき。

「……あの、城から出るのでしたら」

 そこにエリッサがある提案を持ちかけた。


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