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グローバルシティとアニメ・ライブ現象論(軽量版)

 

 ここのところ、アニメ界隈との交流が続き、彼らと交流する中で、ど田舎出身で、詩人「室生犀星」の「故郷は遠きにありて思ふもの」という言葉を思い起こしながら、筆を取る。遠きにありて思ふどころか育ちも何もかも敗北感と格差感に苛まれてますます、一極集中への憎しみが増す中で笑、これから田舎に帰ってしまう筆者の思い、正確には筆者にとって帰郷は敗北であり、撤退戦である、都会に生まれた人は一人暮らししようかなと選択肢がああるが、会津地方のような全日本の中で人口密度が最下位レベルだというと仕事もないので、ほぼ飯のタネを探すために、ほぼ9割若者が出ていく故郷出身者からの目線であり、(実際そのくらいという実感でありデータはない)、都会人は贅沢だなという考えに基づいて、そんなふうに怒りながら笑、自分が思うことをここに書き記す。
 
 さて、タイトルについてだが評論家・経産省官僚の「中野剛志」さんの「日本の没落」をもとにして題をつけました。オズワルド・シュペングラーの「西洋の没落」をベースに日本を論じた2018年あたりに出した著作がある。それが中野先生の著作「日本の没落」である。その中に、シュペングラーはグローバルシティについて「最後に生じるものが世界都市である。これは完全に自由となった知性の巨大な象徴で、またその容器であり、世界史の進路がついに完全に集中される中心点である」と書いてある。ここからが思い当たるところで、都市人にとっては、どきりとするところである、「知的緊張をスポーツという肉体的緊張によって解放し、肉体的緊張を『快楽』という感覚的緊張によって、それから勝負事、賭博との『興奮』という精神的緊張によって解放すること」
「これはあらゆる文明のあらゆる世界都市に繰り返されている」とある。
 
 これら、シュペングラーの著作「西洋の没落」は第一巻1918年、第二巻1922年の出版と考えるといわゆる“予言書”を作ると言う、「西洋の没落」著者の「シュペングラー」の試みが成功したと思っていいのではないだろうか。ここで、スポーツは東京オリンピック、賭博は大阪IRが現代では当てはまる。「西洋の没落」の中で言及されている、肉体的緊張と感覚的緊張の解放を筆者自身も、アニメのライブなどで体験済みだ。田舎にいたときは、ライブなんかする方ではあっても、行く方でもないし、アニメグッズもほとんどもっていなかったのだが、都市ではコラボカフェやライブも行き、都市の娯楽の多さに驚いたものだ。 筆者自身も「いわゆるハマった」のだが、これも緊張の解放だったのではと考えるとすごく納得がいくし、これが「依存」を生み出すのだとしたら、それをビジネスにしたアニメ産業には敬意を表したいし、田舎に足りないものでもある。だから若者は都市にでるのだろう。
それだけではないが、インフラ整備し、東京と変わらない、医療の充実とベーシックインカム、婚姻のための価値観の復古などしなければならないことをしないのが悪の基だが。

 アニメ、ライブ、スポーツ、カジノこれらに若者が依存し、首都直下地震も緊縮財政も、貧困格差、地域格差、防衛、外交、性の衰退、価値観の劣化、コミュニティの劣化から目を逸らし続けている限り、日本の没落は免れないのだろう。「コスパ思考」「勝ち組しか魅力がない」という固定観念も東京で感じ、息苦しさを感じた。大学がどこ出とか、服のブランドを気にしてとかそういう価値観の押し付け、標準的ヒラメキョロ目的な緊張感に筆者は疑問を感じた。3.11で日本人が、東北を見捨てたときから社会学者の宮台真司さんがいう「加速主義」には半分だけは賛同した。しかし、ここまできても、日本人というか都市人は、地震が迫っても、国会も首都移転もインフラ整備すらしないのをみて、まだ気づかないのか、気づかないふりをしているのかと呆れるばかりですが。

 最後に、東京、明治政府に負けた負け組、会津から俯瞰していこうと思う。歴史は流転し、急激に変化し、長州・薩摩が負け組だったのが勝ち組に転ずるように。絶えず、生物・世界は変化していく。
 
 今回は短めだが、いろいろなテーマで限りある時間の中で、愚痴を吐いていこうと思います笑。
  
 駄文、失礼します。 この文を見て、捻くれ者が食いついてくれると嬉しいby筆者。 Xは@Ruriya301です。フォローよろしくお願いします。

 written by Ruriya 

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