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住んでみたい理想の家は、焼菓子とスープと木の匂いがした

「おめでとうございます! あなたは特別なオファーに選ばれました。今日からどこでも住めますよ!」

午前10時のデスク。書きかけた原稿のWordを開いたMacBookの前、現れたそいつはいきなりこう言った。妖精とは彼——いや、彼女かもしれない——のことを言うのだろうか。ジブリ映画に出てきそうなビジュアルの“妖精”はくりっとした目を輝かせながらこっちを見ている。

どこでも住めるって。どこでも?
というか今日から? さすがに急すぎない?

「えー、ないんですか? 住んでみたいところ。よくあるじゃないですか。例えば、ディズニーシーのミラコスタに住んでみたーい!とか、クロード・モネが絵を描いたジヴェルニーの丘に住んでみたいなー!とか。ないんですか」

住んでみたいところ、かぁ。どこでも住めるならどこに住みたいだろう。今の私は、それなりに現状の暮らしに満足してしまっている。東京23区、駅近。実家のある田舎とは大違いだ。窓からドデカい富士山が見える丹沢の山麓、最寄駅からは1時間に3本しかないバスで15分。私は12年間カントリー・ハウスで養われながら上京を夢に見てやまなかったのだ。願いは叶っている。何不自由ない。

「あっそ。おもんないわ」

こいつ、根は関西弁だったのか。

「それじゃあ仕方ありません。特別な力を使うときが来てしまったようです。今からあなたの理想が形になった【心象風景】を具現化しましょう。知ってますか? 潜在意識なんてものはね、案外自力じゃ取り出しにくいんですよ。いってらっしゃい!」

「ちょ、ちょっと待ってよ! 待って、まだ何も」

カーテンの隙間から春陽が差していたはずの仕事場、目の前が暗転した。

***

Scene1:大きな森の小さな家

気がつくと私は一軒家の中にいた。木の香りがする。びっくりして思わず近くの窓から外を見ると、辺りは一面の野山だ。少し先に小川が流れている。せせらぎの音。玄関から外へ出てみると——これは身に覚えがある。キャンプ場の朝の匂いだ。夜中に雨が降ったんだろう。ヒノキの枝先に朝露が光っている。

おかしいな。山から抜け出したくて都会に憧れていたのに——

そうだ。私は木の家に住みたいんだ。それは丸太のログハウスかもしれないし、郊外の古民家かもしれないし、北欧モダンのスウェーデンハウスかもしれない。いずれにせよ木の家がいい。そして自然の豊かなところ。

都心では聞き慣れない野鳥の囀りに耳を澄ませた。

Scene2:ホーム・カフェ

あれ、いつの間に場転したんだ?

私はさっきと同じ木の家のキッチンで大忙しだった。圧力鍋でタンシチューを煮込み、大きな陶器のボウルにいっぱいのサラダを作り、オーブンではパイを焼いている。キンコーンとチャイムが鳴り、私は片手のミトンを外していそいそとドアを開けに行く。

「えー!! ちょっとすごい、家!? めっちゃ素敵ー!!」
「久しぶり〜!!」

賑やかな女友達はお邪魔しまーすと上がりこむ。「はい。これ手土産に!」と1人が紙袋を差し出す。マカロンだ。もう1人は「お惣菜持ってきたの、これ良かったら」とお洒落な前菜をいくつかテーブルの上に広げてくれた。
「ありがとう。もう少しだからちょっと待ってて!」と私は4K大画面のモニターを付ける。

次第に気心の知れた友人たちが続々と到着し、ついに10人ほどにもなった。豆電球色のライトに照らされたテーブルに料理を次々と並べ、あらゆるドリンクと酒類を引っ張り出す。ハーブコーディアルの水割り、自家製ジンジャーエール、梅ジュース。ワインとクラフトビールも開けてしまおう。

「すごいね、自宅の1階がカフェって聞いてたけどここまでとは」と声を弾ませながらスマートフォンを横向きにしてホームビデオを撮り始める友人に気づき、カメラに向かって手を振りながら「ま、今日は貸切だからね」と私は答える。

「乾杯ー!!」

シュワシュワと炭酸の弾ける音に、友の笑い声が重なり合った。

***

——あれ、私何してたんだっけ。

目の前の時計は10時1分を指している。よかった。うっかり2時間も3時間も昼寝をしていたわけではない。原稿は今日中に納品しないといけないのだ。

——ところで、あの光景……

具体的なヴィジョンを目の前にして、私の頭の中では理想の住まいのイメージが着々と仕上がっていた。まるで鮮やかな絵の具を点々と塗り重ねる印象派の絵画みたいに、ぼやけた輪郭はだんだんと1つの像を結んだ。

木の家に住みたい。自然の豊かなところに住みたい。1階はカフェになっていて、料理や飲み物を作ったりクッキーを焼いたりして客人をもてなせる。壁は防音だから、音楽家の友人がアコースティックギターを弾いたっていい。2階より上には私の仕事場があって、いつも風がそよいでいる。地下室では書斎に古美術を飾り、図書館のような博物館のような何とも言えない雰囲気を漂わせたい。

なんだ。夢、意外と見られたじゃないか。

ちら、と辺りを見渡してもあの“妖精”はどこにも見えなかったが、してやったりとクスクス笑いだけが空気の中に残っているような気がした。

「どこでも住めるとしたら、いつかこんなお家に住んでみたいね」

おやつを恵んでいただけると、心から喜びます。