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海と瑠璃の境界 [短編小説]

 凪いでいた。あの日のように、とても穏やかな海だ。車内にも潮の香が満ちていて心地よい。五年前に訪れた時は、助手席の窓から眺めた伊豆の海が、視界の左側いっぱいに広がっていた。
「まるで青い畳を敷いたみたいだろ?」
 瑞希の左耳に、啓一郎の懐かしい声が響く。それは思い出の中の一場面だ。素敵な表現だと褒めたら、実は山本周五郎の小説で見つけた言葉なのだと、すぐに種明かしをした。自分で考えた事にしてしまえばいいのに、それをできない啓一郎がとても愛おしく思えた。
 海を目にした瞬間から、そんな思い出たちが心の中に湧きあがっている。その中へ手放しに飛び込んでいきたいのだけれど、運転中の瑞希にはその余裕はない。右側からは路肩のすぐ脇まで山肌が迫り、ところどころ剥き出しになった岩や赤土が、無言のプレッシャーを与えていた。
 伊豆半島の東海岸に沿った国道135号線は、とにかく狭くて走りにくい。特に海沿いの道は、切り立った崖の上を蛇行している場所が幾つもある。平日の車の少ない時間帯で良かったと瑞希は思った。
 彼女が自ら車を運転し、伊豆まで遠出して来たのは初めてのことだ。今日が特別な日でなければ、きっと昨日と変わらない一日を過ごしていただろう。しかし、今日はあの日からちょうど五年目だった。朝、目覚めた瞬間に、瑞希は行かなければと心を突き動かす何かを感じたのだ。
 あの頃、瑞希はまだ大学生だった。大事な時間をたくさん無駄にしていたのだと、心の奥がうずく。いまだに胸の真ん中に空いてしまった空洞を埋めることが出来ない。瑞希にとっての未来は、あまりにも漠然としていて軽く、もう二度と取り戻せない過去だけが重い。彼女にとって啓一郎は、それほどに大きな存在だった。
 ふいにセットしておいたアラームが鳴った。運転して2時間たったことを知らせている。そろそろ休憩を取った方が良い時間だ。生まれつき左の耳が聞こえない瑞希には、車の運転はかなり疲れる。休みながらいかないと、思わぬ事故につながりかねない。急カーブにさしかかる前の直線で速度を落としながら、お守り代わりで左耳だけにつけたイヤリングをそっと指先で触れてみた。何か考え事をする時の瑞希の癖だ。
「次の港町で昼食にしようかな」
 ひとり言をつぶやいていた。記憶では、そろそろ小さな漁港の防波堤が見えてくるはずだ。啓一郎が、小学生の頃に学校の写生教室でその港の絵を描いたと言っていたことを思い出す。何度も見せてもらったスケッチブックの絵が浮かんできた。どれも味のある絵だった。画家になれば良かったのにとふざけて言ったら、それで食える保証があったなら、そうしていたかもしれないと答えて笑った。
 思い出の中の啓一郎は、いつも笑っている。
 胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、ふいに瑞希の視界がぼやけた。サイドミラーには、かなり後ろを走っている車が映っている。目の前にはカーブの急なコーナーが迫っていた。危ないと思って、左手をハンドルに戻す。
その直後、急に何かが視界の右側から飛び出してきたように感じた。ちょうどカーブの中ほどまでさしかかった時だ。この辺りなら、野生の動物が道路に飛び出してきてもおかしくない。瑞希は反射的にブレーキを踏みこんでいた。
 次の瞬間、フロントガラスから太陽の光があふれ出したように見えた。眩しさで自分の居場所がどこなのか分からなくなる。恐怖心に襲われて心臓がどうにかなりそうだった。それでも、辛うじて身体は無意識に車を操っていたのだろう。路肩に乗り上げて停車した真横を、けたたましいクラクションを響かせながら後続の車が追い越していった。良かった。安堵とともに息を吐く。瑞希は力いっぱい握りしめたハンドルから、まだ震えが止まらない手を放した。ぼやけた視界がはっきりしてくる。何度か深呼吸して気を落ち着かせた。
 一瞬、パニックを起こしたのだという自覚がある。やはり慣れない遠出の運転で疲れが出ているのだと瑞希は反省した。ふと前方に目を向けると、すでに紅葉がはじまっている木立の向こうに、店らしき建物の屋根が見える。道端には、「定食あります」という看板が見えた。ちょうど良いタイミングだ。瑞希はウインカーを出しながら、店までの直線を慎重に移動した。

 近くから見ると、その店は意外と新しそうな建物だった。入口は木製の開き戸だが、看板や壁の色とマッチしていて、なかなか良い雰囲気を漂わせている。大きな窓からは、組木細工など陳列されている土産物が見えた。壁には趣味の良い額に入った風景画が幾つも飾られている。もしかしたら、これも商品なのかもしれないと瑞希は思った。絵にはどこか懐かしさを感じる景色が描かれている。この地で暮らす画家が描いたものかもしれない。なぜかそんな気がした。きっとこの店は、食堂と土産物屋を兼ねているのだろう。
 店の前には砂利が敷かれていて、数台の車が停められそうな駐車場になっている。まだ正午には一時間ほど早い。左右に開け放たれていた入口から遠慮がちに入ると、髪の白い小柄な老婆が、ちょこんとカウンターの席に座って新聞を読んでいた。
「すみません、営業してますか?」
 瑞希は老婆の背中に声をかけた。駐車場に車が停まったことに気づいていなかったのか、老婆は突然の来客に一瞬驚いたような表情を見せた。
「あら、ごめんね。少しも気づかにゃーで」
 老婆は読んでいた新聞をカウンターの奥に投げ置くと、良い景色が見えるからと、瑞希を座敷の席に案内した。少し腰が曲がっているのに、動きは軽快ですばしっこい。靴を脱ぎ、畳の上に座ると、老婆が湯呑と急須を持ってくる。
「ここはちょっとした高台だから、景色は他の店に負けないのさ」
 お茶を注ぎながら話す老婆の方言が、幼い頃に可愛がってくれた父方の祖母と似ていて懐かしく感じた。もうだいぶ前に亡くなったため顔は覚えていないけれど、祖母の言葉の断片や手の温もりは覚えている。会うたびに、綺麗な女の子に育ってねと、瑞希を抱きしめてくれた。
 小耳症で生まれた瑞希が左耳の手術をした時は、何日も泊り込みで看病しにきてくれたと、後に母親から聞いている。「浦島太郎」や「舌切り雀」といった異界を訪れる話をたくさん教えてもらった。方言で聞く祖母の昔話には、とても味わいがあった。
「今日は一人で来たの?」
 手書きのメニューを差し出しながら老婆が訊いた。
「ええ、久しぶりに伊豆の海が見たくなって」
「そうかね。道が曲がりくねってるで、大変だったらぁ」
「はい。おかげでお腹がすいちゃいました」
 瑞希は少しおどけた調子で答えながら、皺くちゃな手からメニューを受け取った。突然、以前にも同じ経験をした気がした。啓一郎が亡くなってから、よく感じるようになったデジャブだ。慌てて老婆の顔を見る。そこには、人懐っこい笑い顔があった。いつにも増して不思議な感覚だった。
「たくさん食べて、ゆっくり休んで。決まったら、教えてね」
 そう言うと、老婆は厨房の奥へと入っていく。どうやら、この店は一人で切り盛りしているらしかった。
 メニューと言っても、そんなに料理の種類が多くある訳ではない。せっかく海に来たのだから、やはり魚が食べたかった。啓一郎がいたら間違いなく刺身定食だったろう。そういえば伊豆に来て一緒に肉を食べた記憶がない。
 啓一郎は大の魚好きだ。単に食べるのが好きなだけではなく、料理も上手だった。子どもの頃に漁師だった叔父に仕込まれたらしい。
 初めて彼の部屋を訪れた時、台所に揃えられていた包丁があまりにも本格的だったので瑞希は驚いた。今どき調理人でもない限り、魚をさばける男はなかなかいない。休みの日には築地の市場まで足を運んで、活きのいい魚を丸ごと一尾買ってくる。
 だが、そんな魚好きの啓一郎が、不思議なことに釣りだけはやらなかった。子どもの頃は毎日防波堤に通って釣りをしていたそうだが、ある時からやめたと話していた。理由は教えてくれなかったが、きっと画家の場合と同じだったのだろう。一生の職業として選ぶ踏ん切りがつかなかったのだ。
 その後、家族揃って東京に引っ越してしまったから、もっぱら食べる専門になったと言っていた。啓一郎が作ってくれた山盛りのお刺身とあら汁の味が舌によみがえる。ただメニューを見ているだけで、こんなにも思い出があふれてきてしまうのだと、改めて失ったものの大きさに心が揺らいだ。
「お刺身定食をお願いします」
 気持ちを立て直すために、瑞希は厨房にいる老婆に向かって、いつもより大きな声で注文を告げた。
「今朝獲れたばっかの、活きのいい奴を出すからね」
 瑞希に負けないぐらい大きな老婆の返事が奥から聞こえてきた。出されたお茶を飲んだら、緊張がほぐれて少しずつ気持ちも落ち着いてくる。やはり東京からひとりで運転してきた疲れなのだろう。空腹なのに、急に眠気を感じはじめていた。
 定食が出来たら、きっとあの老婆が起こしてくれるはずだ。少し眠ってもいいかもしれない。湧きあがってくる啓一郎との思い出に、やっと手放しで飛び込むことが出来る。瑞希はテーブルに顔を伏せ、目をつぶって少し休むことにした。

 突然の死ほど、残された者を苦しめる別れはない。瑞希にとって啓一郎の死は、まさにその典型だった。生きてさえいてくれれば忘れられたかもしれない些細な出来事が、死という絶対的な結末のせいで記憶から消えてくれない。
 啓一郎は瑞希が進学した大学の、サークルのOBだった。四歳年上だから、大学生活を一緒に過ごしたことはない。お互いに一目惚れだった。そうだと分かったのは、大学一年の秋に恋人としてつき合うようになってからなのだが、お互いに会った瞬間から分かっていたようにも思える。兄と妹のように始まり、友だちのような気軽さでデートを重ねながら、やがて二人は、誰が見てもお似合いのカップルになっていった。
 あの日、瑞希の家でつき合って丸三年の記念日を祝った後、啓一郎は帰り道で事故にあい帰らぬ人となった。原因はトラックの運転手の居眠り運転だ。反対車線から信号を無視して突っ込んできた鉄の塊が、啓一郎の車の運転席を潰した。即死だった。
 病院で会った啓一郎の両親は、今にも消えてしまいそうに見えた。大事なひとり息子だったのだ。言葉をかわす気力もなく、瑞希は待合室で呆然と朝を迎えた。
 その日、彼がプレゼントとしてくれた瑠璃色の玉がついたイヤリングの片方を、病院に駆けつける道で失くしてしまった。それが、なぜか取り返しのつかない失態のように思えて、ずっと涙がこぼれるのを邪魔し続けていた。やっと涙があふれてきたのは、二度と彼には会えないのだと観念した通夜の席でのことだ。
 ところが今度は、涙を止める手立てが見つからない。火葬場には片方だけ残った瑠璃色のイヤリングを左耳につけて出席した。左手の指先で触れていたら、なぜかやっと落ち着いて啓一郎の死を受け入れることが出来た。
 それ以来、瑞希は新しいイヤリングを買っていない。古いものも全て処分し、瑠璃色の片割れだけを大事にしている。悲しみに襲われそうな時には、必ず左の耳につけることにした。だから、啓一郎の命日である今日は当然つけている。瑞希にとっては彼との思い出の品であり、大切なお守りなのだ。
 あの時、瑞希は大学4年生だった。子どもの頃から絵画を見るのが好きで、いずれは学芸員として勤めたいと思い続けていた彼女が、やっと都下にある美術館の内定を得た矢先のことだ。
 あの年の二人のデートは、就活を兼ねて美術館巡りが多くなっていた。車のほうが行きやすい美術館は多い。大学生活最後となる夏休みには、泊りがけで伊豆の長八美術館に行った。啓一郎が亡くなる、ちょうど一ヶ月前だ。
 長八美術館には江戸時代に左官の名工として名をあげ、「伊豆の長八」と呼ばれた入江長八の作品が展示されていた。啓一郎も絵が好きだったから、美術館からの帰り道で、いつも二人は夢中になって語り合った。二人で訪れた場所は啓一郎がスケッチブックに描いていたはずだが、残念ながら瑞希のもとには一枚も残っていない。啓一郎の部屋を引き払う時、彼の両親が片付けてしまったからだ。悔やみきれない後悔のひとつだった。
 絵の話をしている時の瑞希の表情が好きだと、よく啓一郎は言った。誰にでも天職があるというのが、彼の自論だった。
「もしかしたら俺は、漁師か絵描きが天職だったのかもしれないな」
「料理人としても有能だけど」
「そっちは趣味でいいよ」
 二人でそんなことを語り合っては笑っていた。確かにそうだったのかもしれない。瑞希は、海にいる時の啓一郎の表情が一番好きだった。本当は、伊豆の海を見ながら暮らせる人生を望んでいたのかもしれないのだ。そして、生きてさえいれば、そんな道だって選べたかもしれない。
(生きてさえいてくれたら)
 心の中で何度その言葉をつぶやいたことだろう。
 だが、瑞希が啓一郎を失ったという事実は、変えようがない。ふたりの大切な記念日に、瑞希は最愛の人を失ったのだ。
 啓一郎が事故死した後、瑞希は大学へ行く意味も、就職する気力も見いだせなくなった。実家の狭い部屋から出られなくなり、引き籠もったまま過去に目を向けて過ごした。絵画と本だけが、なんとか彼女と外の世界をつなぐものになっていた。
 瑞希にとって、啓一郎が亡くなる前と後は、同じ世界ではない。よく似てはいるけれど、あきらかに何かが違うパラレルワールドだ。だからなのか、啓一郎がいない世界では、デジャブに襲われることが頻繁になった。その既視感が、本来あるはずだった世界の残滓のようで、その度に心と身体がアンバランスになる。
 日頃から人当たりの良かった瑞希には、家族をはじめ、たくさんの友人たちが手を差しのべた。その優しさの一つひとつは、もちろん嬉しい。だが、それでも埋めきれないものがたくさんあった。月日だけが、悪戯に過ぎ去っていく。やっと普通の日常を生きられるようになったのは、つい一年ほど前からだ。
 気がつけば、いつの間にか啓一郎の年齢を追い越していた。そう気づいた時、このままではいけないと瑞希はライターの真似事を始めた。はじめは出版社に勤めていた親友からの誘いだった。絵画展に向けたチラシ用の小さなコラムを書かせてもらったら、思いのほか評判が良くて、わずかずつだが仕事と収入が増えていった。
 やがて文章を書くのに行き詰った時は、例の片方だけになったイヤリングをつけることにした。不思議と発想が湧き、ボツにされない原稿が書けた。
(もしかしたら、これが天職なのかもしれないよ)
 たまに見る夢の中で、何度か瑞希は啓一郎に、そう報告した。そんな時、夢の中の彼は何も言わず、やっぱり笑っている。はっきりした答えがないのは肯定の証だと信じて、瑞希は仕事を続けた。
 文章を書いていると、啓一郎のいない世界でも歯車が回っている気がする。いつか、ひとりで伊豆に行ってみようと思いはじめた。今朝、あの事故の日から五年目の今日をその日に決めた。だから、瑞希は今、ここにいる。

「刺身定食だよ。たくさん食べてね」
 頭の上から老婆の声がして、瑞希は伏せていた顔をあげた。どれぐらいの時間、目をつぶっていたのだろう。目の前には船盛り皿いっぱいに盛りつけられた刺身があった。とても一人では食べきれないぐらいの量だ。思わず、驚きの声をあげてしまう。
「凄い。こんなの初めて見ました」
「ぜんぶ今朝獲れたばっかの魚だよ。孫が獲ってくるのさ」
「お孫さんは、漁師さんなんですか」
 老婆の顔つきが訊いてほしそうに見えたので、思わず瑞希は質問した。
 老婆は、やはり地元で獲れたものだという山葵と生姜を、それぞれ醤油皿に移してくれていた。
「まあね。漁師になったばかりなんだけど、腕がいいと評判なんだよ」
「お孫さんは、おいくつなんです?」
「もうすぐ31歳になるでねぇ。ずっと東京で働いてたんだけど、その仕事を辞めて、ここに戻って来たのさ」
 つい好奇心で訊いてしまったが、五年前に漁師になったという老婆の孫は、啓一郎と同い年だと気づいた。こういう偶然の巡り合わせもある。不思議な縁だと瑞希は思った。啓一郎が不在となった年月を、この老婆の孫は故郷に帰り、新しい仕事と向き合っているのだ。
「さあ、たくさん食べてよ」
 老婆が瑞希を見ている。少しでも新鮮なうちに食べさせたいという思いが表情から読み取れた。
 盛りつけられた魚は、啓一郎が料理してくれていたものと同じだ。なかでもシマアジがとても美味しそうだった。その一切れに生姜の醤油をつけて口に入れると、なんともいえない風味と歯ごたえがした。食欲がどんどん湧いてくる。続けて、カツオやカンパチにも箸をのばす。もう食欲が止まらない。本当に美味しいものに出会った時は、そういうものだと久しぶりに実感した。
「美味しいもの食べたら、もう嫌な事はなんもかんも忘れられるさ」
 老婆は向かい側に腰をおろし、瑞希の湯呑にお茶を注ぎたした。その注ぐ手つきが、やはりどこか見覚えがある。老婆が言う通り、食べれば食べるほどに、力が湧き上がってくるような気がして、心がウキウキし始めていた。
「孫はね、絵なんかも描くのさ」
 先ほど目にした、額に入った風景画が頭に浮かんだ。
「もしかしたら、お店に飾ってある絵は、お孫さんの?」
「はぁ、よくわかったねぇ」
「懐かしい感じがする絵ですよね。とっても気に入りました」
「そうだらぁ。でもさぁ、まるで売れないのさ」
 大仰な老婆の話し方が可笑しくて、笑いがこみ上げてきた。誰かと大笑いするのは、本当に久しぶりだ。その時、厨房の方で音が響いた。先程までは何も感じなかったが、今は人の気配がしている。
「きっと孫が帰って来たんだらぁ」
 そう言うと老婆は、よっこらせと立ち上がって厨房に入っていった。たぶん本当に孫が帰って来たのだろう。老婆の声に混じって、男の低い声が聞こえた。何を言っているのかまでは聞き取れないが、ときどき笑い声が混じっているから、きっと何か嬉しい事でもあったのかもしれない。
 しばらくして老婆が厨房から戻ってきた時、ちょうど瑞希は定食を食べ終えようとしていた。
「孫があら汁を作ったのよ。まだ食べられる?」
 老婆の手には、お椀と小皿が見えた。テーブルに置かれたお椀からは、作りたてのあら汁が湯気をたてている。身体のどこに入る余地があったのかと自分でも驚くほど、瑞希は夢中で汁を飲み、骨についている身にしゃぶりついた。
 一気に食べ終えて一息つくと、顔中に汗が噴き出している。その様子を見ていた老婆の顔も赤く火照っているように見えた。瑞希は、美味しかったと言う自分の声が、五年前に戻っている気がした。
 老婆はそんな瑞希を嬉しそうに見ながら、「珍しいものが見つかったのよ」と言って、持っていた小皿を差し出した。骨のように白い皿の底に、ウズラの卵ほどの大きさの瑠璃色の玉が載っている。
「さばいた魚の腹の中からね、こんな綺麗な玉が出てきたのさ。ちょっと手を出して」
 小皿から玉をつまみあげた老婆は、それを瑞希の手のひらの上に載せた。火照った肌に、ひんやりとした感触が伝わってきた。
「失くしたもんでも、必ず海から戻ってくるって言うけど、本当だねぇ」
 老婆の言った言葉が、特別な余韻を残して心に響いた。老婆は笑いながら瑞希を見つめている。ふいに、瑞希の目から涙がこぼれた。まだその理由が分からないうちに、老婆の手が伸びてきて、指先で瑞希の頬を撫ぜた。
「ほんと、綺麗な女の子に育ったねぇ」
 突然、瑞希は時間のない空間に放り出されたような気がした。怖れや嫌な感じは一切しない。はっきりとした答えが喉元までこみ上げている。老婆の言葉を追いかけるように、厨房の奥から懐かしい男の声が響いてきた。
「五年も海の中を漂ってたから、すっかり大きくなったべ」
 伊豆の方言で話してはいても、それが啓一郎の声なのは間違いなかった。
「もう失くしてはいけんよ。もう大丈夫だや」
 老婆の声とともに、急に目の前の光景が石を投げ込んだ水面のように揺らいでいく。それとともに、周囲が暗くなっていった。大丈夫だという声が、くり返しながらどんどん遠ざかっていく。立ち上がろうとしても、脚に力が入らない。
 厨房の奥に行って声の主を確かめたいという気持ちだけが、なんとか瑞希の意識をつなぎ止めていたが、それもやがて途切れた。周囲が遠くから響いてくる波の音だけになる。瑞希は、まるで深い海の底へ沈んでいくように、意識を失った。

*****

 目覚めた時、瑞希は病院のベッドに寝かされていた。どうやら、海沿いの道でカーブを曲がり損なったらしい。ガードレール代わりに植えられていた松の木にぶつかったから助かったものの、もう少しで海に落ちる所だったと、病院まで聴取にきた港町の警官が言った。
(全部、夢だったのだろうか…)
 答えを探すように海を見つめても、そこには瑠璃色の水面だけが水平線の彼方まで続いているだけだった。
 だが、瑞希の手には老婆が渡してくれた瑠璃色の玉がある。医師から聞いた話では、病院に運び込まれた時から、ずっと握りしめていたという。
 よく見ると、片方だけのイヤリングについている瑠璃色の玉と同じ色合いだった。ただ大きさだけが違う。あの店の厨房から聞こえた男の声が胸の奥でよみがえった。やはりあれは、啓一郎だ。夢の中の声だとは思えない確かな存在感が、ずっと心の中に残っている。きっと、彼が言った通りなのだと瑞希は思った。
 あの日、自分が失くしたイヤリングの瑠璃色の玉は、涙の川から海へと流れつき、五年にわたって海の気を吸い続けた。そして、まるで真珠のように、海の中で大きく育っていたのだろう。
 もし、あの店での出来事がすべて夢ならば、朝から何も食べていないはずだった。しかし、瑞希は全く空腹感を感じていない。むしろ、気力は充実し、事故を起こしたとは思えないほど身体も元気だ。どこにも事故の痛みはない。そして何よりも、心の奥にぽっかりと空いていた空洞が満たされたという充足感がある。
(この瑠璃色の玉で、イヤリングとお揃いのネックレスを作ろう)
 瑞希は、本当にこの世界はパラレルワールドなのかもしれないと考えはじめていた。祖母が話してくれた「浦島太郎」や「舌切り雀」のように、この世界にある異界の中には、亡くなった人たちが生き続ける場所がある。
 現世では叶わなかったが、瑞希の伴侶として孫になるはずだった啓一郎と祖母は、その場所で一緒に暮らしているのだ。
 何よりも、そこで啓一郎が天職に就いていることが嬉しかった。漁師として海とともに生き、故郷の風景を絵に描いて生きる。彼や祖母の優しさに触れたことが、瑞希の中で新たな生きる活力になった。もう、心と身体がアンバランスになることは、二度とないはずだ。例えあったとしても、決して負けはしないだろう。そんな確かな思いが胸にあふれていた。
 瑞希は手のひらに載せていた玉を指先でつまんだ。片目をつぶって右腕を真っ直ぐ伸ばし、病院の窓から見える凪いだ海にかざしてみる。海と瑠璃色の玉が、絶妙のバランスでそこにあった。

※『12星座の恋物語』シリーズを掲載していた時に、好評をいただいた12作品を再度アップしていきます。

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