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さよならの線香花火 [短編小説]

 国産のものは、わずか三ヶ所でしか作られていないらしい。線香花火のことだ。今現在、巷で売られている線香花火のほとんどは、中国産なのだという。文乃は、その話を昨年の秋に癌で亡くなった祖母の千鶴から聞いた。そして今日、ちょうど迎え火を焚く準備をしていたところに、宅急便で線香花火が届いたのだ。
 お盆といえば七月か八月の半ばが一般的だが、文乃の家ではずっと明治以前と同じ旧暦をもとにした旧暦盆だった。だから今年は、八月最後の日である今日が盆の入りなのである。
 派手に火花を噴き出す手持ちの花火や打ち上げ花火より、文乃はチリチリと燃える線香花火が好きだった。もちろん祖母の影響は大きい。
「美味しいお酒と同じでね、いい素材を使った線香花火は熟成するんだよ」
 入院するまで一日たりと晩酌を欠かさなかった祖母は、様々なことを酒に喩えて文乃に話した。
 花火が熟成するとはどういうことなのだろう。最初はなかなか理解できなかったが、天然の素材で作ると、火薬が湿気を吸ったり吐いたりして、年月がたつほどに良い火花を出すのだという。
「この火球を見てごらん。まるで人生そのものじゃないか」
 入院する前の日も、祖母はお気に入りの盃を傾けながら、文乃が持つ線香花火に見入っていた。火をつけてから時間が経つうちに、つぼみ、牡丹、松葉、散り菊と燃え方が変わっていく。
「子どものつぼみが、どんどん大きくなって火花が飛び散る牡丹になる。今のあんたみたいに」
 そして、最後の散り菊の火花を見つめながら、「これが私だね」とつぶやいた。もちろん、気象条件や湿度によっても燃え方は違う。だが、祖母が人生に喩えた大きな流れは変わらない。

 あの人の人生は、火花のどの辺りなんだろう。祖母との思い出は、いつしか別れた男の記憶へと移っていく。別れてから三年が過ぎていた。嫌な思いをしてまで断ち切ったのに、結局のところ、まだ立ち止まったまま前に進めていない自分がいる。
 年上の男だった。向こうはバツイチだったから不倫の関係ではない。文乃が二十五歳、男は五十歳。ちょうど倍の年齢の時に出会えたことを男は運命だと言った。
「これまではぼくの半分以下だった君の年齢が、これからはどんどん半分以上になっていく」
 年齢は決して追いつかないけれど、その差が占める割合はどんどん小さくなっていくのだから問題ないのだと男は笑った。男が百歳まで生きれば、文乃は七十五歳。確かにその頃になれば外見はあまり気にならないかもしれない。結婚という言葉が、会話の中に何度も出た。きっと男は本気でそれを望んでいたはずだ。
 だが、ふたりの関係はわずか半年余りで終わりを迎える。はじめは大人の男の包容力に魅かれた文乃も、やがて周囲の友人たちと比べはじめてしまった。二人でいることが、とてもアンバランスなことだと感じるようになって、居心地が悪くなる。ちょうど世間でも「パパ活」という言葉が囁かれはじめていた。デートの先々で、奇異なものを見るような目に晒されていると感じてしまう。それは単なる思い込みだったのかもしれないが、そのうちに文乃は疲れてしまったのだ。些細なことから喧嘩したのをきっかけに、突然の別れを切り出した文乃は、それで一切の連絡を絶った。
 後味の悪い別れだった。泥沼になることもなく別れられたのは、男に分別があったからだろう。もし追いかけられていたら、自分は激情から男を罵っていたかもしれない。文乃は自分の中に、そんな我儘な一面があることを知っていた。
 しばらく思い出に浸っていた文乃だったが、いつまでもぼんやりとはしていられないと気づいて立ち上がった。初盆の祖母や、戻ってくる父や母、先祖の霊たちが迷わないように、早く迎え火を焚かなければならない。文乃は支度に没頭した。
「あら、今年もしっかり迎え火を焚いてるのね」
 通りがかったご近所の奥さんたちが、何人か文乃に声をかけていった。
松の割木を焚いて迎え火を作り、お迎え提灯を灯して軒下に吊るす。お盆の風習を守っているのは、今どきの二十代では珍しいと町内会の老人たちからも褒められた。やり方は祖母からの直伝だ。自分には祖母がいたから身についたに過ぎない。文乃は褒められる度に、心の中でそう思っていた。
 自分は祖母に似ている。それも文乃が子どもの頃から感じていたことだ。阪神・淡路の震災で両親を亡くし、それ以来、ずっと祖母に育てられた。近しい身寄りのないままに、祖母が残してくれた昔ながらの家で暮らす。
 ときどき文乃は、本当の自分はすでに年老いてしまっているのではないかと思ったりもした。仕事に出れば、そこにはもちろん年相応の自分がいる。だが、疲れ果ててこの家に帰ってくると、まるで昭和の時代に迷い込んでいるような錯覚を覚えた。繰り返されるタイムスリップ。そんな日常が続くうちに、時間に対する感覚は鈍くなっていく。こうして人とは違う時期に遅い夏休みを取ると、それは一層強く感じられた。
 それにしても、線香花火を送ってくれたのは誰なのだろう。やるべきことを終えると、興味は後回しにしていた宅急便へと移っていく。平山健二という差出人の名前には全く心当たりがないけれど、おそらく祖母の知人なのだろう。もしかしたら、これまで祖母と一緒に楽しんできた線香花火も、この人が送ってくれたものなのかもしれない。
 国産の線香花火は中国産に比べて火花が大きく、長持ちするのだという。ただし、価格は国産の方がかなり高価だ。中国産が一本あたり二、三円なのに対して、国産は六十円以上もする。きっと職人が、一本一本心をこめて作っているのだろう。
 手作りの、ちょっと高級な線香花火。送り火にする線香花火。そう思ったら、今年は一人ぼっちなのだという寂しさと切なさが再びこみ上げてきた。縁側に腰かけて祖母が手入れをしていた小さな庭を眺める。雑草だけはこまめに抜き取っていたが、春から何も植えていない庭は、かつての賑わいを失っていた。
 表の狭い通りから、今ではこの辺りでも珍しい豆腐売りのラッパが聞こえてくる。夕焼けで世界はオレンジ色に染まっていた。やはり、そこかしこに昭和の雰囲気が漂っている。そして文乃は、静かに流れていく時間の岸辺で、一人膝を抱えて座り続けていた。
 
◇ ◇◇◇ ◇

 夕べ文乃は祖母の夢を見た。背後に影のようにぼんやりと佇んでいたのは父や母だろうか。そんなことを考えながら目覚めた時、文乃は泣いていることに気づいた。今日はお盆の中日だ。あいにくの雨で墓参りへ行くのはやめにした。
 やり残している仕事もないし、普段できない場所の掃除でもしようかと思っていた矢先、ふいにその人は訪ねてきたのだ。平山健二…線香花火を送ってくれた人だった。
 もちろん初対面のはずなのだが、なぜか文乃は会った瞬間に懐かしい気持ちがした。よくよく考えてみると、祖母が亡くなった時に整理したアルバムの中に、彼が写っている写真があったのを思い出す。年齢は五十六歳。旅行雑誌のライターをしているという。
 久しぶりの来客に、なんとなく自分が興奮しているのを文乃は感じていた。相手は訪問セールスや集金の人ではない。わざわざ自分に会うために、祖母に線香をあげるために、男はこの家を訪れてきたのだ。そして彼は、祖母のかつての恋人だった。
「恋人だったって、いつのことですか?」
 はじめて聞く事実に、文乃は思わず声が裏返ってしまった。
「私が28歳の時からです。千鶴さんは今の私と同じ56歳でした」
「そんな年の差カップルって、成立したんですか?」
 疑問だけが次々と胸の奥から湧きあがってくる。文乃は矢継ぎ早に訊ねながら、途中でとても失礼な質問を投げかけているのだと恥ずかしい気持ちになった。確かに驚いたが、男女が逆ならあり得る話だ。現に自分自身が年の差のある恋愛を経験している。
「当時、私は千鶴さんの年齢のちょうど半分でした」
 一瞬、文乃の脳裏に別れた男の面影が浮かんだ。慌ててそれを振り払うように言葉を発する。まるで別れたことの言い訳のような言葉だった。
「当然、迷いがありましたよね?」
 未だに別れた男への後ろめたさがあるのだと感じ、文乃は嫌な感じを覚える。だが平山は意外なほどに朗らかな笑顔を彼女に向けた。
「そうですね。でも、心から愛しているという気持ちも本当だったんです。四年間、私はこの家で千鶴さんと一緒に暮らしました」
 まるで、かつて自分が何度も繰り返した言い訳のような言葉を聞きながら、文乃は指を折って年月を数えた。頭の中で数字が混じり合い、うまく辿れない。
「彼女は、これまで半分以下だったあなたの年齢が、これからは半分以上になるのよって言ってくれたんです。だから本当はずっと一緒にいたかった。でも…」
 その時、聞き覚えのある言葉に混乱しながらも、文乃の頭の中にはひとつの年表が完成した。56歳だった祖母が、若い男と四年間の年月を暮らした。今からちょうど24年前。文乃が祖母に引き取られて、この家に住み始めた年だ。
「もしかして私が来たから…それで、ふたりは別れたんですか?」
 ショックだった。祖母が自分のために幸せな時間を犠牲にしたのだと、文乃は初めて知ったのだ。
「文乃さんは、千鶴さんの全てでした。私との関係はその思いには、とても立ち入れません」
 もともと一方的な自分の思いを受け止めてくれたのだと平山は言った。そのお陰で、自分は生き続けることができたのだと。
 司法試験に落ち続けて、当時の自分は人生に嫌気がさしていたのだと平山は言った。死んで楽になろうと思い悩み、高架橋の上から線路を見おろしていた彼に声をかけたのが祖母だったのだ。出会った頃の祖母は、56歳とは思えないほど若々しく見えたという。
「私は昔から老け顔でしたから、知らない人が見た私たちは、そんな年の差だとは思わなかったはずです」
 文乃は記憶の中に漂っている祖母の姿を探っていた。晩年は白髪に覆われていた髪も、物心がついた最初の頃の記憶では黒々として長い。着物姿でいることの多かった祖母だが、父兄参観や運動会には軽々とした洋服姿で現れたのを覚えている。文乃が子どもの頃、確かに祖母は、事情をよく知らない周囲の人から実の母親だとさえ思われていた。
「子どもを産んだことがないからだと、千鶴さんはよく言っていました」
 そうなのだ。それは祖母が亡くなる前に文乃も聞いていた。文乃の母は祖母の養女だったのである。神戸で暮らしていた父と出会い、嫁いでいった母親は、あの震災で亡くなった。倒れた柱の下敷きになりながらも、必死で小さな命を守った母。だから今、自分は五体満足に生きているのだと文乃は平山に話した。
 祖母に救われた平山と、母親に救われ、祖母に育てられた自分。そんな二人が、今この時に出会っていること。文乃は改めて縁というものの不思議さを感じて胸がいっぱいになった。
「千鶴さんとお別れする日に、一緒に線香花火をしました。だから、それから毎年送らせていただいていたのです」
 やはりそうだったのだと文乃は思った。二十四年間もの間、自分は祖母の思いも知らず、一緒に線香花火をしていたのだと思うと、また何か熱いものが胸の奥からこみ上げてくる。
「もしご都合が悪くなければ、泊っていかれませんか?今年の送り火を一緒に焚けたらと思うんです。この線香花火で」
 平山は驚いた顔で文乃を見た。申し出を嬉しくは思っているが、正直迷っている。確かに、昔住んでいたことがある家だとはいえ、それは千鶴が存命中のことだ。今は若い娘が一人で暮らしている家に、見知らぬ初老の男が泊り込んだら、世間体が悪いだろうと平山は心配していた。
「近所には、叔父ということで構わないと思います」
 平山の思いを察したように先回りして文乃が言う。文乃はこのまま平山を帰したくないと思っていた。もっと祖母とのことを聞きたい。本当なら知り得なかった過去が、今こうして目の前に姿を現したのだ。そのことに文乃は興奮していた。
「今、この家には祖母の魂が戻ってきているんですよ。父や母も」
 文乃の熱意が平山の心を動かした。突然訪ねて来たにも関わらず、信頼してくれているのも嬉しい。一晩だけ泊まるのだから、そんなに気にすることはないのかもしれないと平山は思い直したようだ。
 送り火を焚き終えたら、その足で夜行に乗って旅に出よう。もともと東北での現地ルポに向かう予定を調整して、平山は東京に立ち寄っていた。スケジュールは明日まで移動日に当ててあるから一晩泊っても間に合わせることは出来る。
「では、お言葉に甘えて、一晩だけお世話になります」
「じゃあ、晩御飯の用意をしますね」
 嬉しそうに立ち上がった文乃を、平山は眩しそうに見つめた。血はつながっていないのに、千鶴の面影が文乃の姿に重なったからだ。やがて台所から、まな板で何かを切る音が聞こえてきた。大根、きゅうり、玉ねぎや茄子。割烹着姿でみそ汁の具や糠漬けを切っていた千鶴の姿が浮かんでくる。あれから二十四年もの歳月が流れていることが平山には信じられなかった。
 どこかから、風鈴の音が響いてくる。近所の家の軒からなのか、思い出の彼方で風に揺られているものなのかわからない。過ぎ去った初秋の光景が、平山の心の中に蘇っていた。
 
◇◇◇ ◇ ◇◇◇

 翌朝、平山はうす暗い部屋の中で目を覚ました。雨戸が閉められている。古い家屋には不似合いなクーラーから、冷たい風が吹きつけていた。文乃が敷いてくれた布団の上で、いつの間にか寝ていたらしい。衣服や下着は枕元にきちんとたたまれていた。その重ね方がまた千鶴を思い出させる。
 昨夜は遅くまで文乃と話した。千鶴と暮らした四年間の全てを語ったと言っても大げさではない。文乃が出してくれた食事も酒も美味かった。そのうち、良い心持ちで眠ってしまった平山は夢を見た。女の夢だ。間違いなく千鶴の夢だったと思う。白い肌に纏った長襦袢の赤い色が、目覚めた後も鮮烈に心の中に焼きついていた。女の手が、優しく服を脱がせていく。やがて長襦袢を脱ぎ捨てた女が、平山の傍らに滑り込んできた。
「ほんとに、最後の最後に会えてよかった」
 女のくちびるが肌の上を滑る。堪らなくなって手をのばすと、出会った頃の千鶴より、もっと張りのある乳房に触れた。指が肌に吸いつくような気がする。無我夢中だった。24年間、誰とも過ごさなかった濃密な時間が過ぎていく。ただ満たされていると感じた。もう何もいらなかった。
 目覚めた時から腰のあたりが妙にだるい。平山は、お盆の供養に来たのにとんでもない夢を見てしまったと恥じたが、見てしまったものは取り消せなかった。初老の自分が、死ぬ前にやり残していた未練を感じて、千鶴がまた救ってくれたのかもしれない。平山はそう思うことにした。雨戸を開けると、雲ひとつない青い空が広がっている。もう思い残すことはひとつもないと思えた。
「もう起きてますか?」
 襖の向こうから文乃の声がした。はいと返事してから、自分が裸なのを思い出した。あっと声をあげたがすでに遅い。襖を開けた文乃の目に、痩せてはいるけれど筋肉質な平山の裸体が飛び込む。文乃もあっと声をあげ、ごめんなさいと叫んで襖を閉めた。一瞬で赤らんだ文乃の顔が、平山にデジャビュを感じさせた。
「間もなく朝食が出来ますから」
 文乃は激しい鼓動に戸惑いながら、台所へと走る。昨夜見た夢の一場面が蘇ってきたからだ。男の夢だった。別れた男なのか、誰とは特定できない象徴的な男の姿だったのかははっきりとはわからない。ただ、平山を見た瞬間、夢の中の男が彼だったのだと悟った。夢は夢であって、もちろん現実のことではない。なんと不謹慎な夢を見たのかと自分を責めようとした瞬間、悪戯好きの祖母の笑い声を聞いた気がした。緊張が一気にほぐれる。よくは分からないが、そういうことかと妙に納得した。
 夢の中で、男は言葉を発さないまま文乃を抱きしめる。その時、自分の中でずっとくすぶっていた後悔と罪悪感が解けていくのを文乃は感じた。男の大きな手のひらが肌の上を滑り、優しくもみほぐしていく。3年間、誰にも許さなかった内奥を開いた。まるで心に空いた空洞を埋めるように、熱い血潮が流れ込んでくる。文乃もまた、夢の中で満たされていた。

 その日、夕暮れ時の訪れは思っていたよりも早かった。もしかしたら、お盆でこの世に戻ってきている魂の多くが、あの世への帰りを急いでいるのかもしれない。昔から「迎えは早く、送りは遅く」とも言われ、同じ夕方でも迎え火を焚いた時よりも少し遅い時間に送り火を焚くものだ。だが、お盆の習わし自体が廃れていく中では、居心地が悪いと感じる魂が多いのかもしれないと文乃は思った。
「文乃さん、そろそろじゃないかな」
 平山はカメラを構えている。文乃が線香花火をする様子を写しておきたいらしい。実は旅行雑誌のライターになったのも、写真好きだった平山に祖母が勧めたのだという。レンズを通して平山に見守られながら、文乃はまず蝋燭に火をつけた。風のない庭に、暖かい光が灯る。庭のそこここに、草木の影がのびた。
「おばあちゃん、見ていてね」
 文乃は線香花火を一本手に取ると、蝋燭の炎にかざした。小さな炎が燃え移り、やがて火球になった。時間が経つうち、傍らに祖母の気配を感じるようになる。いつか話してくれた言葉が蘇った。つぼみ、牡丹、松葉、散り菊と燃え方が変わっていく。最後に火球がぽとりと落ちて、バケツの水で消えるじゅうっという音がした。
 ひとしきりシャッターを切っていた平山が、カメラを縁側に置いて文乃の隣に来た。言葉にしなくても、ここからは二人で送り火を焚こうという思いが伝わる。
「千鶴さん、ありがとう」
 チリチリと火花を飛ばす火球を見つめながら、平山はそう何度も繰り返した。夜の静寂の中で、何十本もの線香花火が送り火になっていく。そして最後の一本になった時、ずっと黙っていた文乃が口を開いた。
「平山さん、私、この家を出ていきます。やっと覚悟ができました」
 思いもしなかった言葉に、平山は呆気にとられた。
「出ていくって、この家はどうするんですか?」
「それはまだ決めていません。貸すのも売るのも難しいかもしれないですが…」
 この場の思いつきではないと言いながらも、文乃は言葉を濁す。平山は思案気な表情で、静かに縁側に腰をおろした。
 文乃がずっと迷い続けていたのは事実だ。家賃がいらないとはいえ、古くなった祖母の家を維持していくのは、まだ若い文乃の収入だけでは難しい。祖母が残してくれた預金も、結局相続税やらなにやらで、残り少なくなっている。そして何より、文乃の胸にはタイムスリップしたようなこの家に守られているだけでは前に進めないという思いが強かった。
「いつまでもこの場所に立ち止まっていてはいけないと、祖母が言っている気がするんです」
 今年のお盆は、最初から特別な気がしていた。祖母の初盆に平山が訪れてきたのにも、きっと意味がある。文乃は気持を整理しながら平山に語った。
もう、種火にしていた蝋燭が燃え尽きようとしている。ずっと目を閉じ、黙って文乃の話を聞いていた平山が、縁側を離れ、替えの蝋燭に火を灯した。静かに口を開く。次に思いもしない言葉に驚くのは、文乃の番だった。
「そういうことであれば、私にこの家を譲ってくれませんか」
「平山さんにですか?」
「二十四年も独り身で働き続けてきました。蓄えはそれなりにあります」
 そう言って平山が提示した金額は、文乃が考えていた以上の額だった。
「ずっと老後はこの家で過ごしたいと思っていたんです」
 そう語りながら、平山は昨夜の夢を思い出していた。最後の最後に…そうつぶやく千鶴の声が聞こえる。もし今年のお盆に訪れなければ、この家は人手に渡っていたかもしれない。文乃が決心したのは確かに今年のお盆がきっかけになったが、来年まで別のきっかけがなかったとは言い切れないのだ。
「やっぱり、お互い千鶴さんに呼ばれたんでしょうね」
 平山はそう言うと、最後の線香花火に手をのばした。
「一緒に持ちましょう。来年までは、これで見納めだから」
 平山の言葉の持つ意味が、文乃にはたまらなく嬉しかった。来年も、再来年も、十年、二十年先まで、平山はこの家でお盆を迎えてくれるだろう。
「次からは、私が線香花火を送ります」
 そう言って、文乃は平山が差しだす線香花火に片手を添えた。一緒に蝋燭の火にかざす。二人で灯した最初の送り火。そう思いながら見つめていると、いつも以上に大きな火球に育っていくように感じる。
「おばあちゃん、ありがとう」
 文乃の口から自然に言葉がこぼれた。その声に応えるように、火花が飛び散る。さよならのつもりの線香花火が、はじまりの予感にあふれながらぽとりと落ちた。不思議と、最後に響くはずのじゅっという寂しい音が、二人の耳には聞こえなかった。

※『12星座の恋物語』シリーズを掲載していた時に、好評をいただいた12作品を再度アップしていきます。

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