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心を開きたいんだ

オープンハートで、そんな言葉が飛び交う中に飛び込んで、
みんなのキラキラしたインスタ投稿を見て

ものすごく豪華なスタッフやメンバーに囲まれたセミナーに参加して

みんな心が充実していると
笑顔が溢れる中

同じように笑顔をつくり
でも心は沈んでるとも違う・・・なんだろうなぁ

これって凪の状態でいいのかなぁ

ただ沈んでるだけかな

困ったもんです。

胸の詰まったような状態はなくなってきた。
喉はまだちょっと詰まってる

でもね、これ、心因性。
わかってる

行動リムジンにのって、素敵パラレルに移行して、みんなが幸せに。

そうしてみんなが和気あいあいとしてる場で

やはり、心が開けないので
立ち尽くしている自分がいて

でも、最後に、帰り際、出口付近でセミナーの手伝いをしていた人に
持参したチョコと名刺を渡せた。
そして一言お礼とねぎらいを
出口付近だったから寒かったんだよ。
でもスタッフさん薄着だったから。

そうしたら、あとで
そうやって声かけてくれたのは私だけだったって
お礼のDMがきて

まさか本当に私だけじゃないだろうけど
でもそれを見た時に
あー私ってそういう役回りだなって思ったんだ。
取り零れそうになってる人を掬い上げる

先頭に立って引っ張っていく星回りだって言われたけど
多分私は、競争の最終集団をひっぱる人なんだろう。

まずは

地固めとして

そこからじんわりと先頭を目指せばいいのだ
たとえ先頭にならなかったとしても
目指しただけでいいじゃないか
底辺に止め置かれていた時期が長いんだ
それは誰かに咎められるものではないはず。

どこをてっぺんとするかなんて
自分で決めりゃ良い
エベレスト踏破しなきゃてっぺんじゃないなんて
誰かの価値観に縛られて
他人軸で生きるのは
もうやめたんだろ?

近所の山のてっぺんで満足できるならそれでいいじゃないか。

それに

富士山のてっぺんにたどり着いたからって
絶景なんて拝めなかったろ?
ただの雲海見て終わったじゃないか。

あれだけ苦労して登った先はただの雲

やっぱり富士山は遠くからそのお姿を拝むことに意味があり
畏怖の念も抱けるというもの。
そう思った10年前

前の年にやっぱり富士登山行ったけど
我が子と姪っ子が九合五勺でどうしても登れなくて
旦那と甥っ子と義妹が頂上行って帰ってくるの待ってた時に
トンボがまるでよく我慢したね、偉いぞって言わんばかりに頭にとまった時
それはそれで嬉しかったじゃないか

見てる存在がいる
その時、感じたじゃないか

今だって

否定しないで見てくれてるだろ

高いところに行って、誰も見てくれないなら
意味ないじゃん

どこの誰だか知らないけれど
親切にしてくれた人がいたな
そんな存在になったほうが
ずっといい

それが私のてっぺん

一足飛びになんて
いくもんか
今までの苦しい思いだって
全部意味があった

そうだろう?

こんな自問自答みたいな記事
誰も読まねぇよ
って?

だからだよ

だからココに書いた
誰も読まなくてもいい
言ってしまえば自分のデトックスを公開してるようなもので

心の膿を出しているだけ

究極の自己満足

だって、誰かに伝えたいと思って書くことってさ
ほんと伝わんないし、ウケないし
そういうのが得意な人がすればいいんじゃない?
私は私の思ったこと書いてるけど
その時の感情をその時のまま書いてるだけ
だから途中から感情が変わってたりするけど
それすら記録で残してるようなもの。

これを見てる画面の向こうに
ちゃんと生身の人間がいて書いてるってのさえ伝わればいいかなって。

2023年の初めからこれかい
実に私らしいじゃないか

一応元日のうちに書き切ろうかなとね

ま、そんなこんなで

2023年もよろしくお願いします


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