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「生きるとか死ぬとか父親とか(第二話)」人を弔うということ。遺品には記憶が刷り込まれているということ。

第二話のタイトルは「老いるとか  思い出とか 弔いとか」。松金よね子扮する叔母さんのお見舞いから始まって、彼女が亡くなってお葬式まで。

親族には、さまざまな記憶がある。一緒に暮らしている父母のことでも、そんな親族に聞くと、多くの知らない話が出てくる。私のように、父母が戦争の時代を知っている場合、多分ほぼほぼ両親はその時代のことを語らない。そう、ドラマを一緒に見ていて聞いたことはあるが、自分が目にした本当に苦しい風景は、その場で断捨離してしまっている場合が多い。それが戦争というものだと、私は理解している。記憶を消さなければいけないようなことは絶対にやってはいけないのだ。

このドラマでは、主人公の吉田羊がお父さんのことを叔母に聞く。死んだ母親が何故にこの父を選んだのか?という話。これについても明確に知っている子供は結構少ないのかもしれない。子供が男だったら、ほとんどがそんなことを聞かずに両親を見送るのではないか?そういう意味で、シンプルな話の中に「ドキッ」とする感じのセリフが投げられた感があったドラマであった。

エッセイとして本で読んでいる分には、さらりとそれを読んでしまうようなところが、このドラマでは「間」があるので、会話として重く描かれている。そうすると、原作者の文体の世界を飛び越えて、新しい発信として視聴者に届くのは面白い。もちろん、それは脚本、演出、役者が優れているからだ。このドラマが良い仕事でできた作品だと今日も納得してしまった。

今回も、過去の記憶のシーンが出てきた。部屋に戻ってお父さんが女の人と話しているのを見て、過去に自分が見た父親が別の女と話している場面を思い出すワンシーン。松岡茉優で過去を挿入しただけで、すごい効果がある。松岡茉優はそれができる女優になっているということだ。

この時、リアルに、叔母の部屋で花を取り替えていたのは相築あきこさん。最近、脇役としてよく顔を見る。昔、ドラマで「桃尻娘」を演じていた彼女がシニアの良い脇役として頑張られているのは、同世代としては頼もしい。

そして、遺影が出てきてお葬式、いつも仕切り屋だった叔母を、仕切り屋なしで送るというのが不思議という話が出る。そう、うるさい人が亡くなると、静かになったことが寂しくなったりもする。人間とは、そういう点はわがままだ。

そのお棺に、化粧道具を入れて欲しいというと、葬儀屋さんは断る。そこに國村隼が出てきて、喧嘩腰で「そのくらいいいじゃないか!」と争うシーン。とてもよかった。まあ、葬儀屋は火葬場の状況から、そういうことをいうのだろうと思う。金属がお骨に混じるのが困るということもあるのかもしれない。そして、結論として、モノはあの世に持っていけないという結論なのだと思う。葬儀屋さんのスタンスはあの世ではなく、現実なのだ。

そして、最後の相談コーナーに繋がり、「遺品を捨てたいが、どうすればいいか」という質問。答えは、「人が亡くなっても、記憶は消えない、記憶が刷り込まれたものは記憶そのもの」という話で締める。なかなか2回目も良い話でした。吉田羊と國村隼の二人芝居みたいなところがあって、本当に素敵な時間を過ごせるドラマに仕上がっている。多くの人に見ていただきたい。

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