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映画を早送りして観る行為に関して、私が思うこと。

映画が、2倍速とかで観られているとか、早送りして短時間で観る人がいるとかいうことが、今更ながらネットを賑わしていた。

この問題、今更の話だ。技術とともに映像や音楽の見方や聴き方は変化し続けている。家庭にビデオデッキが普及し、テレビは録画して見ることが多くなった。それとともに、CMは飛ばして見るのが当然のものとなったのだ。確かにこの辺りからテレビのビジネスは怪しくなり始めていた。そして、テレビで流される映画は、時間に合わせてカットされるのが当たり前だったし、吹き替えが当たり前、もちろん画角も4:3サイズにトリミングもされていたし、不完全品もいいところだったのだ。つまり、そんな歴史の中にいたものとしても、映画館でなく、個人が家庭で見る映画は、所詮、その環境のためのものであり、見る側が早送りしたって、それは当然だと私は思っている。だからこそNetflixはシステムにその機能をつけたに過ぎない。そういうニーズをつけることを客から求められれば、当たり前だ。

前から書いていることだが、映画だテレビだビデオだとか映像コンテンツを分けて考える時代ではなくなってきている。今年のアカデミー賞はパンデミックもあり、映画館上映がないものも候補に入っていたりいる。最近は配信試写みたいなものもやっているらしいから、プロの評論家だって10分くらい見てあとは早送りということもあるだろう。私はそれでもいいと思っている。昔の出入り自由の映画館では、つまんないから上映途中で抜けたこともよくあったものね。睡魔に襲われて寝てしまったら、そういう映画だったのだ。そのくらい、映画鑑賞とは自由なものである。

そんな中で家庭の中途半端な環境で集中できないから映画館に行って、確実な映画との対峙をしようとしているのが私である。家でビデオ見るときも、中断してご飯とかはあっても早送りはしない。ただ、中断したら、やはり映画のリズムは崩れるわけで、それは作品の冒涜と言う人もいるかもしれない。そう、映画という作品(コンテンツと呼びたいならそれでもよい)は総合芸術であり、リズムがある。監督がイメージしたリズムを体現するものでもある。だが、映画は作り終わって世の中に放れば、後は顧客の自由である。リズムがあわなければ2倍速で見てもいい気がする。

そう、もはや映画は映画館の環境にだけ合わせたものではないのだ。確かに映画館で最初にお金を取って見せる以上、そこがデフォルトだが、その環境の中でさえ、スマフォを見る輩もいるわけで、もう、映画という定義も明確ではない。

だから、そんな観客の変化にあわせてか、ここに書かれているように、最近の映画はセリフが多い。もはや、セリフがリズムを作ってるようなものもある。そして、セリフが話の全てを説明してしまっているようなものも少なくない。映画の総合芸術としてバランスがしっかりしている作品は少ない気がする。洋画のドキュメントなども、たたみかけるようにインタビューが続いたりする。これはデジタル編集がそういう編集を苦にせずできるところにもあるが、もはやストリーミングでの視聴を前提としているのかもしれない。そう、世の中の流れとして素人からプロまで、湯水のように映像を紡ぎ発信する時代に面倒くさいこと言っても無駄なのだ。映像文化は古典芸能ではない。あくまでも時代に合わせて変わっているということである。

湯水のように流れる映像という部分では、確かに過剰な量の映像を見られる環境がある。その昔、私が学生で映画館に通い詰めた時期でも、封切り作品の2、3割りしか観ることはできなかった。でも、多くの映画を観ることで自分の観たい映画を選ぶ知恵はついたような気がする。映像をビジネスとして見せるということは、その鳥羽口で選択させるということが大事なのだと思う。その辺り、Netflixなどは宣伝が上手い気がする。それに対し、映画館で流れる映画は努力が足りない。

とにかくも、映画はビジネスだ。顧客が求める映像を作らなければいけない。求めていなくても、驚くようなものを作らなければいけない。とにかくも、ファーストシーンからラストまで早送りなどしたくないような愛しい映画が私は好きだ。それを求めて映画館に行く。そういう映画が多く作られることを望むだけだ。


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