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「フェルマーの料理(第8話)」"孤高"という言葉の裏にある刹那さの行方

ドラマの冒頭にあった2024年の「K」の風景にやっと繋がった。そして、前髪を上げることで、キリリとした眉毛が現れ、高橋文哉は大人に変貌する。多分、数年後の高橋はこういうルックスで前に出てくるのだろう。ただ、彼、声が甘すぎる気はする。どういう役をやるようになるかは、作り手の味付け次第というところだろう。

今回は、料理の蘊蓄話も、数学の話もなし。ここに至る前が、数学チャンピオンへの料理提供だったというのはちょっと物足りない気もする。もっと、料理の達人的な人を唸らせる話が必要だったのでは?

そして、まずは志尊淳がフランスに行くと言っていなくなる。味覚が失われる病気にかかったということが知らされ、それは「K」ができたときにはわかっていたことだと。そして、世界から選りすぐりの料理人を集めるが、自分の代わりを任せられる人間がいなかった。だが、そこで出会ったのが高橋だったということだ。しかし、その大事なピースが「ナポリタン」という料理で選ばれようとは、とてもコミック的な流れではある。ドラマをオリジナルで考えるものにはそんな冒険的な流れは作れないだろう。それができるからこそ、日本のコミックは異端なのだ。そして、それを作り出す者たちもまた「孤高」だからこそそれが作れるということだ。

そう、志尊は「孤高」というメモを残して高橋に料理長を任せる。それと同時に話し相手だった白石聖もオーストラリアに飛ぶ。今では世界中どこにいても、スマホで顔をみながらコンタクトを取れる時代だから、このことで「孤高」になるということもないとは思う。情報社会であり、情報過多なこの現代では、かなりの意思がないと「孤高」にはなれない。そういう意味ではこの高橋に課せられたミッションはかなり難しいし、描き方も難しい。

そう、高橋は勝手に数学的解放で料理を作っているだけであり、そこには彼特有のひらめきが味方している。それは、宇宙と語りあっているということなのだろう。ものづくりを極めていくとその悟りを求めるような世界に行き着くのは確かだ。そこで宇宙と話せたものだけが、誰も知らないものを作り具現化できるのだ。そういう崇高なものがテーマにはあるようには感じるが、そう考えると、このドラマはまだまだ甘さがありますよね。

とにかくも、今回のラストで、一緒にいなくなった宮澤エマも戻ってくる。彼女の正体もいまだ明かされていないが何者?そして、及川光博の援助を断って「K」をやっていくという高橋だが、そのすぐ後に彼の荒れた姿が映し出される。クライマックスに映る前にドラマが壊れてる感じはなかなか興味深い。で、数学の天才なら、料理より経理を立て直す方が簡単な気がするが、そういうものでもないのでしょうか?肝心なところに数学の知識を使っていないような気もしますよね・・。

で、志尊淳は戻ってくるまで、ずっとどこかの海岸を歩いているのでしょうか?

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