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「オートクチュール」技術の承継は、ちょっとした縁がきっかけというのは世界共通なのか?

久しぶりのフランス映画。フランス語のリズムで映画の雰囲気はガラリと変わる。ディオールを舞台に、オートクチュールの引退間際の女性と、彼女がひょんなことから出会った若いお針子の卵?の話。いろんな人生が交差し合い、未来が見えてくるラストは、なかなか美しかった。

広報のチラシや予告編からは、もっと派手目な高所得者の世界の映画化か?とも思ったが、実際は、オートクチュールの本質を支える「お針子」の話。未だ、「お針子」というその名の通り、その世界は、所得など関係ない、技術者の「気」が舞台を作る世界であった。だから、映画全体には派手派手しさはない。こういう技術のこだわりみたいな人々を扱った映画を私は愛している。それは、私自身がものづくりの世界に身を投じたエンジニアだったからだ。

そして、フランスの現実みたいなものもよく見えてくる。主人公の若者ジャドは、移民の二世。こういうさまざまな国の人がいろいろに絡まっているのがフランスという国だ。だから、お針子として働く場所に同じ地域の人が入れば親近感が湧く。その表現は、裏から読めば、まだ強く差別意識があるということだ。そんな自分の生まれや環境、そして母が鬱だということなど、主人公の周りは問題だらけ。だから、老齢なお針子、エステルから、バッグを引ったくるような生活をしていたのだ。

ジャドがエステルにバッグを返しに行った時、エステルは彼女の指を見て、この娘はお針子に向いていると見抜く。この辺りは少しおとぎ話的にも見えるが、実際、技術者の器用さというのは天性のものがある。だから、技術者は技術者の本質を見抜けるのだ。日本も、昔はそういう技術者が多く、できる子は、結局そういう天性のものを持っていたという場合が多かったのだと思う。あくまでも、現場で鍛え、ふるい落とす。今のように、学校に行って習うなどという仕組みは、高度な技術者を輩出するには向いていない。あくまでも、学校は先生というビジネスで技術者を食えるようにしてるだけである。(特に日本はそんな感じになってしまった)

そして、この映画のいいところは、一気にジャドが、まじめにお針子になるようなサクセスストーリーでないところだ。映画の中で、徐々に仕事に興味を持ち、自分が相容れないところはちゃんと反論する。そして、評価され、仕事が面白くなっていくところなど、なかなか脚本はリアルだ。だがそのところが、映画的には力が弱い気もする。

ただ、フランスのさまざまな問題が浮き彫りになってくるのは、すごく興味深い。脚本、監督のシルヴァー・オハヨンは、社会的にフランスで生きること、家族のさまざまな問題をしっかりと映画の中に描きこみたかったのだろう。最後のディオールのショーの表舞台が出てこないことでもそれはわかる。そう、華やかな完成したドレスが登場するシーンは少ない。あくまでも、ここで働く女性とその意識的なものが主役であったりするのだろう。

主人公、エステルにとっては、ここが自分の人生の場であり、そこを去る時にたまたま縁のあったジャドに翻弄されながらも、最後には助けてもらう。そして、ジャドはエステルの置き土産にもなっているのだ。そういう、承継の形もある。そして、そこにはフランスの自由さも見えてくる。色々、見終わった後に考えさせられる作品だった。



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