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「TITANE チタン」こういう映画がつくられているフランスに嫉妬する

ネットで多くの人が反応していた映画。クローネンバーグ監督に影響されたというジュリア・ジュクルノー監督の話がネットに書いてあり、ということは「イカレタ映画」だろうとは思ったが、そこに徹している映画だった。という意味では、これを受け入れるか?受け入れないかというだけである。設定から、到達点まで、ほとんどその状況や怒っていることへの説明はない。そして、主人公がほぼ、言葉を発しないために、その思考回路も理解できないし、そういうものを提示したいわけではないということなのだろう。一昔前は、こういう映画がそれなりの数あった気がする。そういう懐かしさもあったりした。

昨年のカンヌでパルムドールを取ったという作品だ。観ている時にはそんなこと忘れていた。ただただ、狂気と陶酔と破壊が混ざり合いながら、映像に叩きつけられる感じ。確かに多国籍に理解できる映画ではある。そして、この映画は女性が撮ったと聴いて、ちょっと世の中が怖くなる。こういうスプラッタ・ムービーと呼んでもいいだろう作品が女性の頭脳から生まれるとは…。日本の女性監督がこういう傾向の撮る日も近いのか?ある意味、これがパルムドールを取ったと聴くと、同じ年に「ドライブ・マイ・カー」が脚本賞を撮ったというのが不思議に感じたりする。パンデミックの中、世界の映画人が求めるものが、どんどん変容しているのか?昨今の配信のための映画みたいなことを考えると、こんな映画は絶対作られないだろう。どう考えても、こんな映画を家族で見ようとは思わない。配信容認の向こうで、映画館でしか味わえないような映像を作り出す動きもあるということか?

そう考えると、テレビに対抗するために同じようなことを考えていた1970年代初頭の東映映画が思い出される。セリフのない主人公など「女囚さそり」と同じである。そして、無残極まりない殺戮シーンも、そこにあったそれを思い出させるものであった。

ただ、映画としては、昨今のデジタル機材を使いこなして、見事なまとまりを見せている。時に音楽と殺戮シーンとの不協和音のようなシンクロが快感になったりする。このあたりは「ジョーカー」などよりも危険な香りを残しながら、映画は進む。そして、消防士の男に囲われ、女であることを隠しながらも、妊娠するというストーリー。ここは、全てサラシを巻いて逃れていくわけだが、この胸にこの腹では隠し切れるのには無理がある。そういう嘘をつきながらも、世の中の澱みの偶像を監督はなんとか定義づけようとしていく。

話としたら、交通事故で脳に一枚のチタンの板が組み込まれるだけの話だ。これは、私たちの頭脳にチップを入れられるような話に繋がったりするのだろうか?とにかくも、作られた異物が、人間の脳を破壊し、そしてまた生殖(車との間にできた子供なのか?)の上に違う異物を作り出すという展開。彼女が吐く「黒い嘔吐物」は、我々の体の中に今入り続けている、産業革命以後の全ての毒物の統合されたものか?内容がないと思われる中に読み取れるところは多い。とはいえ、この映画、今後も「カルトムービー」として語り継がれそうな気がする。それはいいのだが、この上り詰めて不安定な時代に作られたという意味を語り継ぐことができるのだろうか?

考えれば、ファーストシーン、彼女が事故に遭う前に、うるさくわからない擬音を吐き続けるところから始まるが、それは、パンデミックやさまざまなものに苛立ちを感じる、現在の人間たちの怒りの吐露の風景だったのかもしれないと思えたりもした。

私としては、傑作などと呼べる代物ではないが、こういう映像を作り、自国の映画祭で最高賞をとれる、フランスという国に嫉妬を覚えたりする。


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