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「アカデミー賞」作品賞に関する新基準。そこに、映画の自由があるのか?

「アカデミー賞」を主催する映画芸術アカデミーが2024年の選考から作品賞審査に関して新基準を設けるという発表があった。

アカデミー賞が、今年の「パラサイト」の作品賞受賞を機に転換を図るということなのだろう。そして、コロナ禍で差別問題が表面化する事態になったことも大きいと思う。あくまでも、ハリウッド中心白人社会中心のアカデミー賞から世界規模のそれにという意味もあるだろう。映画文化がその土地特有のものというものではなく、世界で共有するものだという意思も感じる。

でも、白人の健常者だけで作ったものは、作品賞には値しないというのは、それはそれで、何かよくわからない気がする。他地域の移民が集まってできた国、アメリカで、一民族だけで作ったものは特殊だということか?では、全て黒人で作った映画はそれでいいのか?実際は、こういう規約を作ることからが、差別の根っこみたいなものではないか?とも感じるのである。

多分、ハリウッドの雇用の段階、スタッフキャストの選定の段階で差別があってはならないというところから、この話はきているのだとは思う。ビジネスの場でそういう問題が起こらぬためのこの規約制定なのかもしれない。何もしないと、結果的に民族的な問題が起こるというのは本当に面倒臭い。

この辺の問題は、日本人には理解しにくいが、そうは言っても、同じアジアの同胞に差別的な意見をするものもいる。その手をテーマにした映画も作られ続ける。日本の映画人はアカデミー賞のこの変更に関してどう捉えるかは興味のあるところである。

ある意味、「パラサイト」の作品賞受賞は、日本映画も勝負できるということを示唆してしまった。そんな現在、音楽マーケットでは、韓国のグループBTSがビルボードでトップに立ったというニュースもある。世界は、アメリカは変わりつつある。日本は、そんな中で文化的発信ができるのか?

そして、複雑な世界の民族問題の中で、日本映画が世界に提示して共感されるものは何か?興味あるところだ。

そんなことを考えていたら、ディズニーの映画「ムーラン」に対し、イスラム教徒に対する人権侵害の横行が指摘されている中国の新疆ウイグル自治区での撮影が行われていたということで、ボイコットが広がっているというニュース

作り手は、良い構図、良い環境の中で作品を作りたいという欲望がある。その中で、こういう事態になることまで考えていなかったということはあるのだろう。だが、出来た映画に罪はあるのか?そして、表現の自由とはなんなのか?映画が世界的ビジネスである以上、政治的な介入を逃れることはでjきないのか?

この映画に関しては、主演女優の劉亦菲(リウ・イーフェイ、Liu Yifei)が香港警察による民主派デモ取り締まりを支持する発言をしたことで政治的論争が起き、ボイコットの声も上がっていた。これに関しては、当人の自由だとは思う。私は、芸能人の政治発言は人の意思として止められるものではないと思う。だが、これにしても、できあがった映画の罪ではない。

「ムーラン」が劇場公開を中止したのは、このバックグラウンドがあってのことなのかもしれない。ディズニーというイメージを大切にする企業にとって、問題をこれ以上大きくしないために、ボイコットされる前に公開しないということか?これも、出来た映画にとっては悲しい話でしかない?

日本でも、民族問題ではないが、大麻所持が見つかった伊勢谷友介氏のために、配信されているドラマや映画、これから公開予定の映画についてどうするか、騒いでいる。これも、私は出来た作品に罪があるわけではないので、公開中止や配信停止など行う必要はないと思う。だいたい、伊勢谷氏が出てくるシーンで大麻を思い出したって、吸いたくなるわけでもないだろう。(もはや中毒の人はそう思うかもしれないが…。)まあ、大麻のルールはまだ残っている日本なので、罪は罪なのだが…。

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こういう話を書いているうちに、映画とはなんでこんなに不自由なコンテンツになったのか?と思ってしまう。確かに、ヒットラーがプロパガンダに利用した時代から、その洗脳力が大きいのはわかるが、その人間の内なるものを表現するためのコンテンツとしては、これほど優れたものはないと思っている。だから、危険であり、だから、平和であったりもするのだ。

ハリウッドの示す方向性が、映画という表現をもっと多様にし、パワーのあるものに変えるのなら大歓迎だが、何か不穏なものを多く感じるのは私だけだろうか?

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