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「俺の家の話(第八話)」このドラマが、介護ドラマであり、家族ドラマであることを確認させる回

宮藤官九郎は、真面目な重いテーマのドラマに挑戦しているのだ、ということを西田と長瀬の別れのシーンを見て思った。その後に、離婚した妻の出産に付き合うという光景も、滑稽に見えるが、そんなことも現代にはリアルに起こりうるのだ。そう、脚本はウケ狙いだけでこういうシーンを挿入していないことがこのドラマの凄みだったりもする。

そう、このドラマには現在のさまざまなことが詰まっている。ロバート秋山が浮気をしていて、その彼女の写真が修正しまくりだったという下りも、ただの笑いではない。なんか、背伸びして嘘ついて生きている現代人の悲哀を感じるシーンだったりする。

そして、このドラマは、思いっきり恋愛ドラマでもある。親子3人で戸田恵梨香を取り合うという、結構なドロドロな図式なのに、長瀬の恋に対するスタンスが一番可愛いいのも良い。そして、そんな長瀬を、元妻の平岩紙と語り合う戸田。そこで、プロレスラーや能楽師、いわゆる芸能に生きる人に恋をするということの哲学が行われる。

そう、リングや舞台では、多くのものが貰えるのに、実際の生活では何ももらえないようなこと。平岩が、それをスカイツリーに恋してるようなものという。そして、このドラマの最後の方でスカイツリーが出てくるので、かなりこれは重い言葉なのだ。戸田は、そんな話に、「妖精みたいですね」と返す。まさに、芸能人というのは妖精なのかもしれないと、テレビの中の妖精さんたちを見ながら思った。そう、こんな感じでリアルな世界に勝手に踏み込んでくるのも宮藤脚本の特徴ではある。その辺は、三谷幸喜の脚本などより、何度も見返したくなる面白みなのだ。

多分、あと2回くらいでケリをつけるのだろうが、遺産の話、跡目の話、恋の行方の話、まとまりそうで、まとまってこない。西田が、今回、「終活をしようか」と言い出すが、それは、ドラマのケリをつけるよという宣言だったのだろう。だから、そこから、長瀬以外の息子や娘が寄り付かなくなる。そう、最終回に向けて家庭崩壊が起きているのだ。その中での、西田をグループホームに送る長瀬のシーンだったのだ。前回でも書いたが、こういうシーンは浪花節そのものだ。それを現代的にアレンジしたらこうなったということだろう。

このドラマを見ていると、人生などプロレスのようなもので、筋書きを決めているのに、その通りにはならない。他人にウケようとしてもなかなかそうもいかない。家族だからという甘えの中でも人は疎外されていくみたいなさまざまな複雑系の重なり合う都会での人生観を感じてしまう。

都会で成功するということは、スカイツリーになるようなものかもしれない。なくてもいいのに目立ってるみたいな。そして、それは、高度成長期の、巨人、大鵬、卵焼きみたいなものであり、思い出にはなるが、それ以上のものにはならないみたいな。そして、このパンデミックで生きてるだけで感謝みたいな時代には「それは必要なのか?」と思われるような感じ。

なんか、色々と切なくなりながら、今日も私は妖精を追いかけて生きているのかもしれないなと思ったりした。

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