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「あの頃、文芸坐で」【80】柳町光男監督「十九歳の地図」の陰鬱な空気の70年代と80年代の間

1982年6月19日、「十九歳の地図」を見る。この時期、映画を見に行く回数も増えてくる。大学に通っていたのだが、授業には真剣ではなかったということだろう。昨日書いた、藤田敏八オールナイトに行ってから、6月に入って、5日に有楽シネマで「TATTOO(刺青)あり」を封切りで見る。そして、12日にはテアトル新宿でチャールズ・ブロンソン主演の「ロサンゼルス」とブライアン・デ・パルマ監督の「ミッドナイト・クロス」。当時のテアトル新宿は場所は今と同じだが、洋画二本立ての名画座だった。この日は、「ミッドナイト〜」を見たくていったはず。デ・パルマという監督がお気に入りだったのだ。そして、同じ日に渋谷に立ってたシネマプラセットに長嶺高文監督「ヘリウッド」を見に行く。そして、次の13日には、シネマスクエアとうきゅうに「さらば愛しき大地」を封切りで観る。その流れで、同じ柳町監督の「十九歳の地図」を見に行ったわけだ。そして、この日は、その後に五月みどりのロマンポルノを見に行っているが、それは別途。まあ、自分のことながらそれなりに充実してる感じが今見てもすごいですね。

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まずは、コラム。今関あきよしや手塚真、犬童一心の話。同世代の私は、彼らみたいなのを見てもがいていた。いや嫉妬もあっただろう。そして、ここに書かれているように、我々の世代は、「新人類」と呼ばれた。何がといえば、一般的な社会常識から少しずれていても、自分の生活を優先するような部分だと思う。まあ、大学は実際、レジャーランド化されていたし、そこにも馴染めない私は、映画館通いしていたのだ。そして40年、ここに書かれている彼らがいまだ映画に関わっていることは、大したものなのか?他に何もなかったのか?ということ。私はといえば、一時は、エンジニアとしてそれなりに大成する道を探っていたが、時代に負け、また映像の世界に押し返されてきている。まあ、「新人類」と呼ばれたものたちは、その名前に負けて朽ちたか?さらにリニューアルして「新新人類」になっているか?人生の地図など、思うようには書けないですよね。

プログラムは、文芸坐はビートルズ特集の後にヴィスコンティ2本立て、そして007特集。そのどちらともに、私は参戦しているのでその辺りは後日。文芸地下は、フィルムフェスティバルの後、根岸吉太郎二本立て、そして鈴木清順特集。オールナイトは「前田陽一」「根岸吉太郎」「舛田利雄」舛田監督の特集が一回きりとは、勿体無い話ですな。

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そして、この日のプログラムは「十九歳の地図」と「純」の二本立てだった。「純」は前に見た時に書いたが、痴漢の陰鬱な話で、映画自体が私の肌に合わなかったので、この日は見ていない。とはいえ、当時の軍艦島が出てくるのは貴重である。

「十九歳の地図」
中上健次原作の映画化。「純」が陰鬱だといえば、ここの主人公も陰鬱である。新聞配達しながら、気に食わない家にXをつけていく。そして、その家のXが貯まると嫌がらせ電話をかける。当時は、携帯電話などない時だ。ということで、上の写真のような絵になる。新聞配達という仕事もそれなりに大変だった頃。考えれば、彼らがネット回線さながらにニュースを各家庭に配っていた。そうはいっても、新聞配達は底辺臭がすごくある仕事でもあった。新聞はエリートが作ってヤクザが売ると言われた時代だ。そういう意味では、東京都北区が舞台がこの映画は、1970年代から1980年代になる間の風景がなかなか貴重で、東京ってこんな感じだったのか?と思う今の若者は多いのではないか?そして、ここで本間優二が演じる主人公をどう感じるかは、ちょっと気になるところ。まあ、話は暗いが、確かにこういう若者がこの時代にいたということである。そういう意味で、この映画も「さらば愛しき大地」も、柳町映画は、当時の空気を満遍なくフィルムに封じ込めている。そういえば、本間優二って、今、どうしてるんでしょうか?

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