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「エンドロールのつづき」映画を愛する映画ではあるが、その愛し方に違和感もある。

監督パン・ナリンの自叙伝的な映画ということで、映画愛に満ちた作品なのかな?と思って観たわけだが、彼自身は映画に興味があって、それを観たいがあまりにフィルム泥棒などをするわけで、その辺りには共感できなかった。そして、彼らが切り刻んだフィルムが映画館にかけられるという話も映画ファンとしてはあまり気持ちよくなかった。結局は、この映画、少年が育った土地から他の土地に旅立つ話である。その辺りにフォーカスをしっかり当てれば良かったものの、監督自身の映画に対する偏愛が映画自身を散漫にしてしまった気がする。

最初と最後に映画監督の名前を羅列するのは、映画愛なのはわかるが、そこに映画ファンである私がニヤッとできないということである。しかし、この中に日本の映画監督が三人出てくるのだが、黒澤、小津と勅使河原宏というのが興味深かった。

インドの片田舎の小さな街。いつの時代かよくわからないが、家に家電がないし結構古い話かと思って観ていた。出てくる映画館の環境もかなり古めかしい。実際、こんな雰囲気の映画館がインドには残っているのだろうか?そんな感じで、最後に映画館がデジタル化する話がオチの一つになっているのだが、そう考えると、ここ10数年の話ということになるが、監督のプロフィールを見ると少しここは時代的におかしい。(実際、監督の本当の年齢がネットを見いてもわからないので、突き詰めなくてのいいかとは思う)まあ、監督の経験は入れ込んであるのだろうが、フィクションだし、時代感もフィクションと考えればいいのだろう

話は、その街に住む少年のマサイが映画が好きで、学校をサボり映画を見に行く。館主に追い出されるが、映写技師と仲良くなり、母親の弁当を差し出す代わりに映写室で映画を見せてもらうことになる。そこにあったクズフィルムを持ち出して壁に映し出してみたり、映画ごっこみたいなことをやるほど好きな「映画」というのはよくわかった。しかし、自分が住む街の駅にフィルムが運び込まれることを知ってそれを盗む行為に出るのだ。そして、自分たちで映写機を作って、上映しようとするのは面白いが、それで、結果的には彼は刑務所に入れられてしまう。話として、少年の夢の追い方が綺麗ではないのだ。

その裏には、父親が事業を失敗して、今は駅でチャイを売っているという貧困生活にあるというのはわかる。そして、学校の先生は今のインドで成功したかったら英語を学び、この街を出ていけという。この話に影響されて最後に街を出ていくのなら、感動できた気もするが、そうではなく、最後には父親が彼を「好きなことをやれ」と追い出す感じなのは少しやるせない感じがした。

階級社会のインドが今やそういう状況だということも言いたいのだろうが、その辺の社会事情がよくわからないので、ラストシーンに涙する感じではないわけだ。

それよりも、映画好きの監督ならではなのが、先にも書いた劇場がデジタル化する話である。突然、連絡を受けて主人公が映画館にいくと、運び出される映写機と、フィルムの画が出てくる。それを自転車で追いかける主人公。ここからは、映写機は金属としてスプーンになり、フィルムは溶かされて腕輪になるという光景が出てくる。映画が違うものに変わる悲しさみたいなものが描きたかったのだろうが、なんか、ものつくりのドキュメントを見ている感じで、私にはしっくりこなかった。もはや、映画は世界的にデジタルで映すものであるが、映画館の数も映画ファンも多いインドではこういう画がどう捉えられて語られるのかは聞きたいところではあるが・・。

映画的には、インド映画にしたら、映画として映し出されるシーン以外はミュージカルシーンもないから、落ち着いた感じのものになっている。そして、インドの風景、料理や食事を作る風景はなかなか興味深かった。そして、主人公のお母さん役のリチャー・ミーナーという女優さんがとても整った顔立ちで綺麗だったことが印象に残りました。


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