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「あの頃、文芸坐で」【31】「狂い咲きサンダーロード」初体感。そこで、映画は変えられたのか?

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ここの連載で、何度も出てきた「狂い咲きサンダーロード」を初めて観たのがこの時である。いまだと、半年もすると「ビデオで観ろ」というのが映画というメディアなのだが、この頃は、封切り半年後に、やっと名画座で観ることができたというものも結構多かった。映画というメディアはそういうものであって欲しい気がする。とはいえ、「劇場」の封切りと配信が同時というのも出てきてしまい、そんな戯言言ってられない今日この頃ではあります。

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コラムは、寅さんの中の博の言葉を引用している。「美しい音楽を聴いたり、すばらしい絵を見たりして、感動するためにだって僕たちは生きてるんじゃないですか」そう、映画を観ることだって、私にとっては不要不急などではない。それが生きるための力になるのだから。なんか、今の世の中に向かって書かれているような文章だ。そして、その後に、7月31日に亡くなられたばかりのアラン・パーカー監督の「フェーム」の話。若者たちが目指すものがあり、そこに向かっていく話。本当に良い映画でした。私も、日本映画ファンではあるが、アラン・パーカー監督の映画は好きで観に行っていた。本当に、このコラムを今日読んだのだが、過去から現代を透視されているような気分になった。そういうのも、映画の力なのかもしれない。

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プログラムは、前回と変わりない。文芸地下の「レイプショット百恵の唇」「愛の白昼夢」は、あくまでも畑中葉子の初のロマンポルノ出演の「愛の白昼夢」が観客を運んでくるというプログラムである。アイドルがロマンポルノに出演ということで、この頃からロマンポルノ自体が少しポップなものに変わっていく。女優の脱ぐという行為がマネータイズできる時代になったということである。文芸坐といえども、そこに乗っかっているわけで、客が欲しかったのは事実だと思う。映画会社にっかつからすれば、文芸坐のような映画館でかかることが、ロマンポルノ制作のエンジンになったということもあっただろう。

そして、黒澤明の二本立て興行である。この当時は二本で5時間近くになるものでも平気でかかったし、客も入った。黒澤映画を映画館で観ることは結構容易だった。だが、今は、黒澤側の意向で二本立て興行はさせないという方向らしい。若者が、率先して映画館に黒澤を観にくる時代ではないが、そういう興行側のビジネス都合の制限は、映画界にとって損失であると思う。黒澤明の映画は古典になっても、日本人の作った世界に認められた文化遺産である。それを観ることが簡単でなくなることは許し難いことにしか思えない。遺族の意向次第のことであるらしいが…。

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そして、石井聰亙監督「狂い咲きサンダーロード」をここで初めて観る。明らかに、自主映画の延長上にある35mm映画だった。東映が配給している以上、これがメジャーデビューだったのだろう。(その前の澤田幸弘監督との共作となっている「高校大パニック」は数に入れなくていいだろう)。そして、内容は、架空の街の暴走族の存続、解散の揉め事。主人公、仁を演じた山田辰夫の荒くれかた、そして高いトーンのうめきが映画をどんどんハイにしていく。どんどん警察に寝返っていく仲間に喚き、一度は小林稔侍率いる右翼の飼い犬に成り下がろうとするが、そんなことができるはずもなく、バトルスーツを身に付け、サンダーロードの最後の決闘に挑むという話。

最後は、バイクと銃弾が舞う西部劇のような世界。ある意味、ここが撮りたかったのだろうし、自主映画ではできなかった無理を通している。つまり、自主映画の演出を金を使ってやるとこうなる的な映画なのだ。

つまり、その映像に今も埋め込まれ残っているのは、石井聰亙監督の映画バカの勢いだけだ。この時代にも、今までに至っても、こんな映画は他には存在しない。そういう意味では、いろいろ下手くそさがいっぱいの中に、強烈なパワーだけが見えるのは、今の若者にもわかると思う。そういう映画を残している石井監督はある意味、幸せと言っていいだろう。オリジナルネガ・リマスター版はまだ観ていないが、これを書いていて観たい欲望に駆られてきた。

そして、この日は村川透監督「野獣死すべし」をロードショー以来、再度観ている。痩せこけた松田優作、そして小林麻美の存在だけでも絵になる作品だが、最後まで追いかけてくる室田日出男も印象的。原作とはかけ離れた作品だが、優作の映画では私は最も好きな映画である。

このところ、スカッとするアクションを撮れる監督が出てこないのは寂しい日本映画界。新たなる令和時代のニューアクションの出現を望む、今日この頃だ。


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