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「何曜日に生まれたの(第8話)」人生のトラウマに引っかかっている3人の再生はうまくいくのか?

最後には3人のアガサが現れ、その一人に「何故、私のこと書くの?」と言われて溝端は刺されるという、最終回前のセンセーショナルなシーン。と言うことで、この話は日本中のこもりびとに対しての叫びのドラマなのか?と言う推論が私の脳裏に浮かんできた。そう、日本中にアガサが存在するというのがこの話。

ある意味、主役である飯豊まりえが、こもっていた10年を取り戻すことがこのドラマのテーマであり、そのことは、高校のサッカー部との再会でそれほどの違和感なく完結できたと言っていい。そして、10年の中で彼らがそれほどの変化を起こしていないことで飯豊は自分の引きこもりの時と現在を繋ぐことができたわけだ。そう、四半世紀前くらいに比べたら、最近の10年はあっというまで、変化がない。ここ10年でいえば、スマホを皆が持つことで世界が変わったことくらいだろう。そう、電話で他人の日常会話を盗聴しようなど007でもできなかった技なのだから。

そして、高校を卒業して10年、精神的にも進歩がないのが今であり、ここで溝端が書いているようなラノベやコミックの読者に、一切の年齢制限はない。そのマネーで生活する大人も少なくないわけで、年寄りから見たら捻れた現象を遠目に描いているのがこのドラマなのかもしれないと思えてきた。

そう、飯豊が、結果的に世の中に引っ張り出され、そのピュアな感性、(社会に洗脳されていないもの)がモデルとして受け入れられるという流れも実際にありそうな話である。現代は、もはや錆びた世の中に洗脳されたものなど誰も求めていないということなのかもしれない。話を一緒にするなという人もいるかも知れないが、ここでのジャニーズの没落は必然だという論理を示すなら、そういうところに起因するのだと思う。男も作られた美しいだけのものではビジネスにはならないという事。そう、男も女も美しさの基準が変わりつつあるという事なのだろう。

そう考えれば、飯豊まりえや、白石聖は新しい世代の美女としてここから業界を登っていく人たちだ。

そして、そんなこもりびとに寄り添ってきた溝端淳平は、ここからどう描かれていくのか?自分のプライベートを切り売りするという行為は、昔からあることだ。そして、彼が飯豊と白石が接触することを声を荒げて拒否しようとするのがとても不可思議ではあった。自分がヒロインとして描いた二人が接触することで何が起こると考えたのか?

ある意味、檻の中にいた、飯豊、白石、溝端が社会に普通に入れるはずがない中で、このドラマの中で彼らのアイデンティティーをどう守って終幕にするのかは興味がある。飯豊への溝端の愛情の処理の仕方もどうするのか?最終回、注目ではありますね。

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