母の手料理

高校時代の友人が母親になったようで 離乳食にこだわっている 様子をツイートしていて微笑ましくなった。

子供のためにお出汁を取っていたり フードプロセッサーを駆使していたり 手間ひまかけて作られた離乳食は成人した私でもちょっと食べてみたいと思えるほど美味しそうに見える。

私の母も近所で有名な 料理の上手な母親であり、添加物にうるさかった。

化学調味料は基本的に食べさせず、買い物をするときはいつも裏の成分表示を見ていた。
地域の運動会で出るお弁当の赤いウインナーはいつも捨てられていたし、母がいつも作るから宅配ピザを大学生になるまで食べたことがなかった。

誕生日ケーキは毎年スポンジから手作りで、お正月には机一杯手料理がならんだ。
母は子供時代いろいろあった人なので『家族そろって温かい手作りのご飯を食べること』が家族の幸せの形であると信じて疑わない人である。

さて、私が小学校二年生の頃に授業参観で『好きな料理』を発表する授業があった。
今思うと授業参観にくるのは基本的に母親なので喜んで帰って貰おう、という先生の心使いかもしれない。

私がこの時言ったのはよりによって「金ちゃんヌードル」だった。

ある晩母が突然入院し、料理のからきしできない父がこっそりと食べさせてくれた金ちゃんヌードル。

普段食べなれない、ダイレクトな旨味に加え母に「ナイショ」で食べるそのシチュエーションが200円にも満たない金ちゃんヌードルの味を無類のものへと押し上げたのであろう。

幸い母はいつも手土産に手作りのケーキを持たせたりしばしば友人家族を夕食に招待したりしていたので「普段から金ちゃんヌードルしか食べていないのでは」という誤解はなかったものの、母はよほど悔しかったのか、未だに帰省して料理を食べると「金ちゃんヌードルより美味しい?」と聞いてくることがしばしばある。
記憶にないことを責められても困るしラーメンと別の料理どっちが美味しいと言われても困る。が、もう大人なので文句は飲み込むし満面の笑顔で美味しいと言うのもやぶさかではない。

冒頭の友人が「娘のためにがんばってたけど疲れた…残されると悲しい」と呟いていたが親の心子知らずとはよくいったもので、親の苦労やありがたみを子供が知るのはずっと先の事であるのは私がよく知っている。

大学で一人暮らしをし、三食カップヌードルを食べて幸せに浸っていたが結局恋しくなるのは母の手料理なのだ。

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