学びの自由と時間

 勤務時間に縛られて動いていることに苦痛を感じることがよくあった。休憩時間や勤務時間終了後に打ち合わせや雑務をしなければならないことはよくあるのに、数分の遅刻や早退すら年休を使わねばならないことは煩わしさ以外の何物でもないと感じていた。

 長時間勤務が問題となり、タイムカードで勤務状況を把握することになっても、業務量を本気で減らそうという動きはない。「工夫をしましょう」の一言で、超過勤務が「趣味でやっている」や「仕事が遅い」などのように個人の責任にされてしまっている。

 COVID−19の影響で、期せずして在宅勤務になった。自分で時間をコントロールできる喜びでウキウキしていた。ただ、締め切りに迫った仕事をしているわけではないので、それこそ思うように自分の追求したいことに没頭できる環境になった。

 しかし、始まってみると、びっくりするぐらい時間が過ぎるのが早い。何をやったか思い出せないくらい、ぼんやりとしてしまっていた。時間はあるはずなのに、普段の方がよっぽど本を読んでいるような気がするし、片道1時間以上の通勤時間がないため、必然生活が遅くなっていた。

 普段は「時間に縛られているなんてもったいない、余計なことはやらずに、自由に働こう」と仲間たちに訴えていたが、実際の自由を手にした瞬間に崩壊し始めていた。「大人が管理するのではなく、自律的な学び手になるために子どもたちが主体的に時間や学習内容を考えて行うようになるのがこれからの教育だ」なんて熱く言っていたが、それがいかに難しいことか、痛感させられた。

 このままではやばいと感じ、自分がやりたかったことをリスト化した。細かくいうときりがないが、大まかには3つのことをやるようにした。

  ①考えをまとめること(言語化すること)

  ②オンラインのコミュニケーションの場を作ること

  ③生活を整えること

 “to doリスト”などありふれたことだろうけど、今までの仕事ではリストを作る必要もないほど、次から次へのやる必要があることが流れて来ていた(残業しないためには休憩時間に休んだことがないくらい)。自分でコントロールすることがかなったが故に、学校がいかに時間に追われている場なのかを再認識することができた。

 コロナウイルスのひと段落すると、学校は元のように戻ろうとするだろう。前例が好きだし、“子どものため”と今まで以上にいろいろなことをやらせようとするだろう。だから、このままでは危険だと思う。

 学習指導要領では「主体的」とはいったものの、子どもたちが主体的に学ぶような学校にはなっていない。そもそも大人である教職員が、自分の時間を自由にコントロールできる中で仕事をするということに想像ができていない。

 自律的な学び手を育むためにも、学校は追われるような教科内容や行事を精選しなければならない。誰もがまともに目を通さない学習指導要領や教育計画ではなく、A4一枚(もう少しあってもいいけど)でスッキリまとめて欲しいと思う。学校や一人一人の教職員に裁量があるようすれば、自ずと時間的な余裕ができ、子どもたちの学びの形も変わっていくと思う。 

 ただ、自由を手にした最初は、私のようにぐうたらしてしまう可能性はある。しかし、その先に、自らの追求や学びが広がっているのではと感じている。オンライン授業を模索するのもいいけど、時間がある今こそ、学びと時間についてじっくりと検討して見てもいいのではないかと思う。


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