【day9】猫

「夕焼けに足を止めることの方が多いじゃんね」

 海沿いの歩道を夕陽に照らされながら歩く彼女が言った。「あの夕陽に向かって走れ」というフレーズの青春熱血ドラマに感化されて散歩にきたのだが、実際に見た夕陽への感想はそれらしい。

「砂浜で走ったら砂まみれになるし、靴履いたまま海に入ったら靴が濡れるし、ベタベタしてそれどころでもないし。何も考えずにその場の雰囲気に流れて行動することが青春なのかな。そうだとしたら私に青春は無理だって話だね」

 砂を巻き上げた潮風が吹く。真っすぐ伸びた背筋の軸は一切振れずに裾だけ揺れる彼女のワンピースを見て木の枝に引っかかった風船みたいだなと思った。

「どうかした?」

 振り返った彼女はいたずらっぽく笑った。足元にばらまかれた砂利を踏んだように心が擦れる。僕は痛そうに笑ったんだったかな。

「そろそろ帰ろっか」

「もう少しだけ、歩こう」

 夕陽はもう水平線を走っていた。月の出勤はまだみたいだったけど、星のスイッチが入って常夜灯のように弱々しく光っている。また夜なのか、と思うと涙が出てきた。

 もう何度目だ——今日で十二日目かな——いい加減にしろよ。なんでそうやって冷静なんだよ、なんで受け入れているんだよ。そうさ合理的さ、死んだ人間のことなんて思ったところで時間の無駄さ。お前の人生も終わろうとしない限り続くように出来ているんだから。やめろよ分かってるよ、分かってたんだよ。僕らはそういう関係だったのだから。

 僕はいつの間にか——といいながら意識的に——堤防を越えて砂の丘陵を下っていた。いつかの日のように彼女がまたふらっと現れて後ろから声をかけてくれるんじゃないかと期待している。……

 彼女との過去はそこで途切れてしまった。

 これからどうすればいい?

 あの日に戻っただけなのに道が分からなくなってしまった。

 あの日は覚悟もなくここに来ていた。今はどうだろうか? あの夕焼けた波にのまれることができるだろうか。また君が止めてくれるだろうか。それとも背中を押してくれるだろうか。

 靴の中に砂が入った。彼女の嫌がることの一つだった。膝が崩れた。立ち上がって真っ先に払うのに、僕は砂を握って額をつけていた。太陽の熱が冷めていくのが分かる。太陽の一欠けらが海の向こうに見えた。

 彼女の言っていたことは本当だった。と感心した。

「夕焼けには足が止まる」

 僕はあの日から走り出せないでいる。