【day16】導

 カッターで人を切りつけたことがある。いじめられバカにされ、ぐちゃぐちゃになった心のままに筆箱から取り出したカッターを教室の中で振り回していたら、相手に突き飛ばされて関係のない女の子を切ってしまった。

 女の子は俺よりもひどい悲鳴をあげて泣き、俺は尻餅をついたまま貧血を起こしたみたいに全身の力が抜けて動けなくなった。血の気が引くというのはこういうことかと他人事のように思ったことをまだ覚えているほどに。

 それから中学生になるまでの一年間は誰かと会話をした記憶がなかった。


 中学生になってもその状況は変わらないと思っていた。すぐに自分がしでかしたことは広まり、誰からも遠巻きにあるいはひそひそと陰口を言われる日々なんだとむしろ期待すらしていた。その頃になるともう、人とどう接していけばいいのか分からなかったから、どうせなら誰とも関わりたくなかった。

 入学式から一週間くらいの様子を見ていると、やはりというか同じ小学校に通っていた者同士で行動しているらしかった。中には他の学校の子と話している者もいたけれど友達というほどの関係値になく、四校ひとまとまりの一年生の総数が三百人を超えるのだからそれもそうかと思った。そんな中でも異彩を放つ者はいて、俺に声をかけてきた。

「ね、一人で何してるの」

 その子は他県から来た転入生で、友達は当然おらず文化が違うからどう接していいかも分からないという点では俺と同じなはずだった。俺のことを知らないなら友達になれるかもしれないと淡い期待を持っていた。

「暇だから寝てる」

「君はどこ小だったの?」

「西山小。……あの、俺とあまり話さない方がいいよ」

「なんで?」

「嫌われてるから」

「知ってるよ。だから話しかけてんじゃん」

 変なやつだと思った。意味の分からないやつだと俺の方が引いてしまった。その子は俺にこう言った。

「カッターで切りつけてくるサイコパスって聞いたんだけどさ、そんなの聞いたら話してみたいと思うでしょ。どんな人なんだろうって気になるでしょ」

「ならないよ怖くないの? 同じように切られると思わないの?」

「カッターで切られたくらいじゃそうそう死なないし少し血が出るくらいじゃん。それに、その場面を見たわけでも俺が切られたわけじゃないから怖くはないかな」

「どうかしてると思う」

「よく言われる」

 その子の屈託ない笑顔を見て、人はこんな風に笑えるのかと驚いた。それまで見てきた笑顔が非道なゴブリンのゲヒャゲヒャという笑いだったとしたら、その子の笑顔は赤ちゃんのそれだ。とても眩しくて、ああ、俺とは住む世界が違う人なんだと諦めた。こうして話をできただけでどれほどの幸運だったのだろうかと。

 教室の扉からその子を呼ぶ声が聞こえてきた。どうやら違うクラスの子のようで、昼休みだったから外でサッカーしようぜと誘いにきていた。もうすでに他のクラスの人と仲良くなっていることには驚かなくて、むしろ納得感すらあった。「俺とはもう話さなくていいからあっち行った方がいいと思うよ」と精一杯笑った。

「いやだね。また話にくるわ」

 そういってその子は扉の方へと走っていった。その背中を追いかけていたら教室を出る時にくるりと振り返り、

「翔太! またね」

 言うだけ言ってどこかに行ってしまった。

 心臓が熱かった。上を向いていないと涙と鼻水が流れてきてしまう。歯をくいしばっていないと大声で叫んでしまいそうだった。今なら空だって飛べる気がした。