【短編小説】澄明な後悔

 雪に埋もれて白くなった母さんを凍て曇りの空に送ってから季節は一周した。
 目にする世界は全て、あの冬の日から変わらずに降り続く雪によってホワイトアウトしたままである。
 この雪はいったい何なのだろうか。いつになったら止んでくれるのだろうか。俺に、どうしろって言うんだ。
 やけに意思を感じさせる自覚的な雪に、その白さでもって形あるモノの輪郭を一色に塗りつぶされ、過去も未来も現在との境を取り払われて見分けがつかず、自分がどこにいるのかどこへ向かえばいいのか何をすべきなのか、分らないままにただ立ち尽くすだけであった。
 薄灰色に汚れた空から落ちてくる濁り雪のせいで、もうずいぶんと長い間、澄んだ空を見ていない。



 国道百十三号線は渋滞していた。今日は大晦日だ。師走を駆けて新年を迎える最終日、学習という言葉を蔑ろにした人間たちによって、例年と同じく道路は帰省に明け暮れた自動車で埋め尽くされている。
 多分に漏れず俺もその一人であった。とはいえこればかりは仕方がないだろう。昨日まで仕事をしており、今日以外で帰省の機会などなかったのだから。もちろん年休を取ればいいのだが、新入社員にとって年休を使用することのハードルは高く、自身の都合を優先するよりも休むことによる申し訳なさが先に立ってしまう。
 後方からクラクションが鳴った。遅々としてしか進まない現状に痺れを切らすことは理解できるがやめて欲しい。俺だって進みたくても進めないのだ。
 渋滞は何も帰省者が多いからというだけではなく、この悪天候もまた牛歩とさせている要因である。
 フロントガラスを通して見える世界は全て雪で覆われており、見事に白一色となっていた。所謂ホワイトアウトだ。仮に今日がなんでもない平日であり普段は利用者が少ない道であっても、こんな状況で速度を上げて走る馬鹿はいないだろう。どんなに急ごうとしたところで死んでしまえば元も子もない。それくらいは、車を運転できる年齢になった人間なら理解できるはずだ。
「はぁ……」
 変わらない状態に嫌気が差して考えるより早くため息は口からこぼれた。フロントガラスを薄く曇らせたが支障はない。そんなことをしなくても、すでに視界は真っ白なのだから。
 前方の車が少しずつ進んで行くのに合わせて、十分な車間距離を保ちながら同じ速度となるようアクセルをゆっくり踏んでいく。いつ何が起ころうとも瞬時に停止できる余裕を持たなければたちまち玉突き事故だ。それでは目も当てられない。
 車速十キロメートル毎時から二十キロメートル毎時の間でのろのろと進んでいると、斜め上に赤い光が灯るのを見た。はて、ブレーキランプにしては高すぎる。雪による光の乱反射が起こったにしても広く太い気がした。ナビ代わりにしているスマホを横目で見ると、なるほど。この先に信号機があるらしかった。と視線を戻すと、前方の車の輪郭をはっきり視認できる距離まで近づいていて、ヒヤリとしながらブレーキを踏んだ。スマホを眺める時間がもう少し長かったなら追突していたからもしれない。背筋がぞくりと泡立った。鳥肌が立ったのは、冬の寒さとは無縁の冷たさによるものだろうと思われた。
 シートへもたれかかり、くすんだ灰色の天井を見上げ、「……疲れた」またしてもぽつりと漏れていた。精神的な疲労もさることながら、存外肉体的疲労の方が勝っているようで、頭がほんのりぼーっとしている。
 この雪の中、ただでさえ日常的に運転をしない人間が、三時間休憩なしで走行しているのだから当たり前といえば当たり前だった。
 疲れたの言葉の半分くらいは後悔の意図を含んでいる。
 今月初め、人生初のボーナスが入り、片田舎へ住んでいることを背景として必要に迫られたため車を購入した。これまで二十三年間生きてきて、三百万円以上の買い物をしたのもローンを組んだのも初じめてだった。そのため調子に乗っていたのも浮かれていたのもその通りであり、山形の田舎で冬の厳しさに育てられてきたというのに、無根拠な自信がそれらを隅へと追いやった結果が今である。
 一昨日、昨日、今朝と家を出る時は晴れていたのに、予報でも雪は降らないと言っていたのに……。などとは言い訳がましいが、天候が変わることを自分の責任とするには無理がある。過分な期待と妄想に連れられて臨んだドライブは時間経過と現実によって羞恥と失望に変わってしまった。好奇心は長続きしてくれない。
 そうこうしていると信号が青へと変わった。それに応じて吹雪の中を先導してくれるようにトラックが動き出す。普段なら邪魔なだけなのにこういう時は目立ってくれるからありがたい。なんて思ったのは初めてであった。ホワイトアウトするほどの降雪時に運転をしたのは、もちろん初めてなのだからそう思うのも頷ける。
 初めてといえば、今年は人生で稀に見る多くの未体験で溢れていた。初めての就職、初めての仕事、初めての一人暮らし、初めての車。……初めての母親の死。葬式も火葬も骨を拾うのも、死体を見たのも。多分、これを越えるほどの一年を送ることはこの先そうないだろう。
 集中力を欠いた思考ではいけないと、すっかり冷たくなった飲みかけのコーヒーを一気にあおり、蓋の開いた容器からガムを二つ口に放り込んだ。ちらりとナビに目を移すと、渋滞はまだまだ続くと表示されている。
 頑張らねば、と気を引き締めるも雪の降り方は一向に弱まる気配を出してはくれなかった。


 午後五時、田舎の夜は早い。
 国道から一般道へと移ったこの辺りは、田舎らしさが増していた。周囲には下手くそな化粧で頬を真っ白く染めた女のように、雪化粧をして地面との境目を失いきれいに均された田畑が広がっている。遠くにある森も、真っ暗な中にただ凛然とあるだけで、話しかけてきたり道案内をしてくれる親切心はなく自然であった。
 民家も街灯も見当たらず、沈んだ陽光と対をなすはずの月と星は幾重にも折り重なった重々しく戯れる雲の上で息を潜めるばかりだ。……森閑としている。ここには、ヘッドライト以上の騒々しさを描写することは許されていなかった。
 孤独だ。
 俯瞰的に、あるいは客観的にこの何もない夜道を走る自分の車を想像すると、孤独であった。一人、洞窟の中を懐中電灯の灯りだけを頼りに探索する気分である。時間と共に、興奮は怖気に変わる頃合いで、物言わぬ案内人に従い鉄の塊を操作していることが違和感となっていた。この道はどこまで続くのか。無事目的地にたどり着けるのだろうか。目の前すらろくに見通せないくせに、たしかに目的の場所へ進んでいるという不思議。これが違和感の正体なのは言うに及ばないだろう。
 まばらにだが、少しずつ民家や街の灯りたちが目につき出す。人の営みを宿した温もりの灯りだ。それと同時に、見慣れた道、景色だと脳は記憶の中から教えてくれた。
 自分がまだ中学生の頃だろうか。ここら一帯は田んぼや畑、川や森などといった四季の流れを真似るように動く自然が根を張って沈黙していた。それが変わってしまったのはここ五年ほどのことである。各種メディアは田舎暮らしのロマンを大々的に掲げ、何の夢を見たのかは知らないがまんまとその策略にはまった言うことを聞くだけの脳無し共は、こぞって地方に集まり始めた。田畑と森と川を潰して家が建ち、好機と見た銭狂いたちが店を並べ、それがまた人を集め、子供が無計画に組み上げていく積み木のような街が出来つつあった。かつてあった虫や動物に宿る命のきらめきも、川の流麗な声も、木々や草花の揺藍する踊りも、日を重ねるごとに隅へと追いやられていった。
 舗装されて数十年の経過を感じさせる道路の脇、夏には稲の青が眩しい田んぼとを隔てる小さな用水路は雪を押し込められて見えなくなっていた。自然に埋め尽くされたのもあるのだろうがそれだけではない。車が通れるだけの道を確保するために掃けられた結果の雪たちである。
 ありがたくも、多少の寂しさを覚えてしまう。そこには思い出も一緒に詰まっている。
 小学校高学年の春、それも起床して一時間後の大学生みたいな太陽に頭上を照らされ、葉桜から落ちた影に助走をつけ始めた夏の匂いを感じる季節のことだ。
 現代の娯楽は遠く行動範囲は狭い田舎の子どもの遊びといえば、森に入って冒険をしてみたり、秘密基地を作らんとしてみたり、川や池や空き地や森で生き物を捕まえたりであった。その中の一つに季節限定イベントとして異様な盛り上がりを見せていたのがカエルの卵採集だ。
 他にあまり類を見ない手触りと黒く光沢のある見た目、水の張った田んぼや小川、手を伸ばせば届く用水路など手軽に採れること。さらには誰が一番多く採ってこられるか、競争心が子供心を水場へと駆り立てた。一度楽しさを知ったのだから毎年熱中していたのは想像に難くないはずだ。
 ただ今になって当時の姿を振り返ると、それは異教徒や魔女を血眼になって探す狂信者さながらで、何かこれこそが至上命題であり神の託宣に命をささげて遂行せんとしている狂気をはらんでいたように思われる。我ながら恐ろしい。
 だが、真に恐ろしいのはその後であった。
 疑問に思わないだろうか。子供たちが採集したカエルの卵はいったいどこへ行くのかと。答えは簡単だ。田んぼやそこへ水を引くための用水路、小さな溜め池などとにかく近場の水があるところへ一斉にカエルの卵がいっぱいに入ったバケツをひっくり返していただけである。するとどうなるかなど火を見るより明らかであろう。孵化したオタマジャクシはそこで育ち、やがて成体となり繁殖の時期になると一斉に鳴き始め、本来ならば散り散りになって行われるはずの夏の風物詩的な歌声は、夜、近所一帯を取り巻く大合唱へと変貌し、暑さと相まって眠れぬ日々を強制されるわけだ。
 それも、質の悪いことにこのガキどもは、カエルの卵を集めて捨てたことなど報告をしないどころか捨てた次の日には忘れていた。故に、謎のカエル大繁殖事件として数年間大人たちの悩みの種となっていたのもまた事実であった。
 そのことが発覚したのは何を隠そう先に述べた春のことだ。例年よりも大量に採ろうと考えていた俺は、二十五リットル入るバケツを家から持ち出そうとした。すると、たまたまそれを見た母親が何とはなしに「それ持ってどこに行くの?」訊いてきたので、元気いっぱいに「カエルの卵採ってくる!」叫んだ時には襟首を掴まれ正座せられていた。
 説教、もとい尋問は二時間近く続き洗いざらい話したが、唯一、友達も一緒にやっていることは言わず自分一人の犯行であると言い通した。「まったく馬鹿なんだから……」呆れた様子でため息を吐く母親を見て、当時はうまく騙せたのだとほっとしていたけれど、今となっては息子の嘘を見抜けないような親ではなかったことを知っている。それでもなお納得してくれたのは、優しさ以外の何物でもないだろうということも。
 結局、近所の人たちへ事情説明と謝罪をすることになり、母さんは一緒に頭を下げてくれた。
 懐かしい。そう思う一方で、迷惑ばかりかけていたんだと気付かされた。申し訳なさと、ここまで育ててきてくれたことへの感謝は、恩返しはおろかろくな親孝行さえできず、あの頃のように叱ってくれることもない事実と同居していた。ただそいつらは、いずれ雲へと還ることを待つ水溜まりみたいに、そこにいるだけだ。
 後悔、なんて一言で表せるほど単純な気持ちにはなれなかった。だけど、後悔の言葉以外で言い表すことができないこの感情は、制御も予測も効かない目の前の雪に似ていて、降り積もっては俺の視界も行く先も白く染め上げていた。
 あぁ、そうか。そうだったのか。ホワイトアウトしているのは、天候のせいではなかったのか。この雪は全部、俺が降らせて、なのに自分で見て見ぬふりをして、あの汚れた空のせいにしていたのか。そうだ、全部全部俺が悪いんだ。どうせ何もかも俺の責任なんだ。
 自暴自棄のままふと我に返ってみると、いつの間にか、フロントガラス越しに見えていたはずの行く手を遮ることこそ使命としていた雪は、激しさを忘れたのかしおらしく降るばかりであった——。

「ただいま」
 居間の戸を引き帰りを告げた。炬燵に埋まりだらしのない姿でテレビを見ている父さんが「おう、おかえり。遅かったな」こちらを振り返ることなく出迎える。これはいつものことだ。
「雪と渋滞がひどくてね。兄貴と怜君も久しぶり」
 突然の来訪に戸惑う犬が吠えるのを宥めている兄と、その横で一緒に犬と戯れる兄の子供に声をかける。犬が俺に懐かないのもまた、いつものことであった。
「おう」
 短く返事をする兄の言葉はそこで止まり、次の言葉は出てこない。兄の子は、そんな父親を見て育ったからだろうか、目を逸らすだけで何も返してはくれなかった。よそよそしくとも案外、家族なんてこんなものだ。
「線香あげてくる」
 言って、居間から出ていった。
 五畳程度の元空き部屋は、母さんの仏壇専用となっていた。放置されていたゆえの埃っぽさを残した部屋ではあったが、転がる石に苔は生えないとでも言いたげな小綺麗さと仏壇の前に置かれている座布団のへたれ具合は、過去から現在までの変遷を描いたコントラストのようで、俺の入る隙間もないほどに完成されていた。そこに混じろうとする自分自身はまさしく未知であった。
 足を動かすことができず部屋を眺めるだけで立ち尽くしていると、「なにしてるの?」後ろから幼く矛盾を知らない無垢な声がした。
「お線香あげるんだよ」
 振り返り、屈んで合わせた目線から口を吐いた言葉はそれだった。聞く人が聞けば、返答になっていないことなど明らかである。嘘を吐いているようなものだ。
「れいもやる!」
 そんな小さなことには目もくれない小さな生き物は、「毎日やってるんだよ」自信満々に言って線香を一本とマッチの箱を俺に渡してきた。
「やって」
 本当は自分でやりたいのだろうが、火を扱うのは危ないことだと教わっているらしかった。それでも慣れたもので、早くとせがむ姿は見ていて微笑ましい。
 渡されたマッチに火を点け線香に移して仰いで消し、灰の積もった香炉へさす。線香の煙はくゆり伸び、漂う香りは俗世でついた糸くずを払うかのように清らかで、雑然としていた心を落ち着けた。
 カラーが褪色を始めた遺影に影が薄くなった印象を受け、写真に写る母さんは、あの頃から年をとっていた。死者もまた生きているものと同じく時間が流れているということなのだろうか。それに比べて俺は……。
 隣で同じように正座している怜君が鉦を鳴らして合掌をする。毎日やっているというのは本当なのだろう。その姿は回を重ねるごとに洗練されていく品が備わりつつある様子だ。それも、ただ作法が美しいとかそんなことではない。祈りが文字通り祈りであった。大人たちがやる、あの作業めいた儀式ではない何かがそこにはある。手を伸ばしても、俺には届きそうもないけれど。
 見るばかりではなく俺も手を合わせて目を閉じた。俺に祈れることは何もない。ただ黙祷。
 目を開けると視線を感じ、隣を見ると怜君が俺を見上げていた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
 そう言う怜君は笑っていた。無邪気な、とても楽し気な微笑みであった。誕生日がくるみたいな、朝目が覚めたらクリスマスプレゼントが枕元に置いてあるみたいな、そんな期待をはらんだ微笑みが眩しい。
「何かあったの?」
「明日ね、おばあちゃんが帰ってくるんだよ」
 そんな言葉を残して立ち去っていく怜君の背を目で追うことしかできず、俺は何も言えなかった。もう、お祖母ちゃんには会えないんだよ。なんて、言えなかった。怜君の祈りが祈りたりえたのは、それを知らないからに違いなかった。神様はいるのだと、信じ切っている人間たちと同じ目をしていたのだから。
 ぎゅっと、胸が痛くなる。後悔が、雪崩れ込んでくる。心臓に空いた穴を押さえていないと、血管を通して全身をめぐり変貌した責任があふれ出てきて死んでしまいそうだ。
 居間からは、食欲を釣られる匂いが微かに漂ってきていた。

 夕食はカレーだ。なぜこの大晦日に? と疑問の声も上がるだろうが、我が家のしきたりなのだから仕方がない。母さんは几帳面な面倒くさがりだ。今日この日に手間もかからず雑に作っても味は大して変わらない主婦の見方を使わずしていつ使うのかと、翌日も温めるだけで食べられるカレーを大晦日の夕飯にすると決めていた。別に、新年を迎えることや国民的な祝日だからと言っても、そんなことに何の思い入れもない男連中は母さんの提案に従い、以来十数年はこれである。もちろん、今回夕飯を作ったのは兄の嫁さんだけれども。
 午後十時を回る頃合いで、怜君を寝かせるために兄の嫁さんは居間から抜けた。自然、残された男三人は一斉にお酒へと手を伸ばし、プルタブを引く音が三つ、テレビの音に紛れて弾けた。父さんはビール、兄はハイボール、俺は梅酒と三者三様である。
 一口含んで喉を通し、缶を置いたら父さんが口を開いた。
「母さんが死んでもう一年か」
 ぽつりと言ったその口調はまるで、もう少しでおつまみを食べ終えてしまうくらいの不幸でしかなかった。「そうだね」適当な相槌を打つと、
「せめて怜が成人するくらいまでは生きて欲しかったなぁ」
 兄の無自覚な言葉が俺を刺した。渇き始めた喉に酒を流したけれど、刺されて空いた穴から漏れ出るみたいに潤うことはなかった。
 母さんが亡くなった元日の朝の出来事は全員が知っている。母さんは、降り積もった屋根の雪を下ろそうとして足を滑らせ転落した。二階の、たかだか五メートルほどしかない場所から落ちて……打ち所が悪く即死であったらしい。それを見つけたのは、犬の散歩から帰ってきた俺であった。散歩に行く前、最後に会話したのも俺であった。
 そのためか、兄の言葉にお前のせいであると誹られている気分であり、何の抵抗もなく俺に突き刺さってしまう。母さんの未練や自身の後悔に比例して拍車も駆かってのことだから、余計に鋭さを持っていた。
「俺が、やってればよかったんだよな」
 悔い改めることを求めていた感情はお酒によって統制を失った理性を脱し、思考の上澄みからこぼれた言葉は声になって抱えていたモノを吐き出していた。
 誰かが紡いでくれる二の句をテレビの喧騒も風に揺すられる窓のガタつきも炭酸の溶ける音も、この世界でさえ待ち望み、静寂は何よりも勝っていた。
「案外、母さんに未練はないんだろうよ」
 どうして、そんなことを言い切れるのか。俺は目で訴えた。
「もしまさが同じことになってたら、それこそ母さんは死んでも死にきれん」
 父さんは、ポテチを三枚同時に食べるくらいの贅沢みたいに「子供より先に逝けたんだ。本望だろう」言って、缶ビールを飲み干した。
「たしかに。自分の子供ができた今だから、それ、すごく分かるわ」
 兄も同じようにハイボールを飲み干した。
 そんなはずはないだろう。未練ならあるはずだ。こんな男三人を残して去らなければいけなかった後悔だってあるはずだ。その責任は、全部俺に向けられないといけないはずなんだ。
 ……今この場で、母さんの心情を分かっていないのは俺だけであった。
「だからな、そんな気に病むなよ。お前のせいなんかじゃねぇから」
 その言葉で、気がついてしまった。気がつき、でも信じることはできず、ぐちゃぐちゃに混ざった内臓から色々なモノが込み上げてきて、トイレへ駈け込み全部吐き出した。俺は何も、自分自身のことでさえ分っていなかった。

 午前零時と酔いが回った頃、炬燵で眠る二人を置いて二階へと上がり布団を敷いた。酔い覚ましに出たベランダで、足先から地面に伝わっていく自身の熱を思うと、まだ生きているのだと実感した。
 このまま、あの重苦しい雲の下敷きになって消えてしまいたい。夜の闇と同化して、俺が俺でなくなってしまえばいいのに。けれどそう上手くはいってくれない。
 実際のところ、俺は何も悔やんでなどいなかった。
 母さんの死は母さんのモノであり、ゆえに後悔も未練も、もしあるならばそれはやはり母さんのモノである。だというのに、俺は自分に転嫁させ、さも自身のせいであるかのように振る舞い、自分勝手に母さんの心情を推し量っては雪に重ねて降り積もらせていた。ホワイトアウトしていたのは瞼の裏だけで、濁った空から降る後悔は目を閉じ自分で着色していただけである。どこにも進まなくていい理由を、母さんの死という絶好の言い訳を隠れ蓑にして怠惰にも立ち尽くすことを選択していたのだ。
 俺が悔やんでいいのは唯一、そんな選択しかしなかった人生に対してだけだあった。
 思えば昔から、頼まれてもいないのに他人の責任を背負い、盲目にそれが正義だ正しい行いだと信じていた。俺は何も変わってはいなかったのだろう。そのことに、「お前のせいじゃねぇから」の一言で気付かされてしまった。
 ただ、臆病にも確証が見つからないのをいいことに、布団をかぶって目を閉じた。
 明日からはもう、雪は降ってはくれないと知っているのに。

 朝、シャワーを浴びて見上げた天井にため息を吐いて死にたくなった。いや、どうせ本当に死を望んでいるわけではないのだろう。死にたいと思考する人間は生きたいと素直に考えることを尊い何かだとして卑しい自分はそれを言うべきではないとか下手な理屈をこね、しかし本当に死ぬ気もないからとりあえず逆のことを言って偽っているにすぎない。死を望んでいるものはすべからく、生を否定するものであるはずだ。故に、死にたいではなく生きていたくないと思考するはずであった。
 つまり俺は、生きていたいということになる。
 などとくだらないことを考えながら居間へと行き、薄く禿げり始めても未だ広がりを見せる雲のせいで少し仄暗い外を、窓に頭を寄せて座り眺めていた。窓の隔たりを越えた外気に触れる頭の一部分だけが、冷めていく。
 母さんが死んだときも、こんな朝だった気がする。
「あら早いじゃない。正月くらいゆっくりしてればいいのに」
 防寒着をフル装備した母さんが居間へと入って来て、炬燵に体の半分が埋もれて転がった二つの人間を跨ぎゲージから犬を開放した。
「いつもよりは遅いけどね」
 スマホを片手に生返事をするが、別に何かをしていたわけではない。母さんの言うようにもっとゆっくり寝てればよかったけど、目が覚めてから二度寝をする気になれず時間を持て余していただけであった。
「カレー、温めてあるから食べるなら食べちゃって」
 犬にリードをつけハンドバックを持った母さんは俺がこの時間に起きてくるのを知っていたみたいにそう言った。「散歩?」訊くと、
「そうだけどあんた行く?」
 からかっているのが分った。俺は犬が苦手で、小学二年生のころ犬から追いかけられて以来、トラウマとなっていることを知らないはずがないのだから。
「まあでも、たまにはいいかも」
 幼児の第一次反抗期にありがちなとりあえず逆のことを言う的な、小さな意趣返しであった。「無理しなくていいわよ苦手でしょ」驚く顔一つせず、でも言っていることとは逆に母さんはリードを押し付けてきた。
「じゃあお母さん、屋根の雪下ろししてるから」
「大丈夫?」
「当たり前じゃない。何年やってると思ってんの」
 呆れられたが本心であった。言っても若くはない。だが、この本心も別にそこまで無理強いするほど強いものでもなかった。高速道路を二時間くらい運転してそろそろ休憩した方がいいんじゃない? くらいの感覚だ。
「大した高さでもないんだし大丈夫よ。それよりさっさと散歩に行ってきなさい」
 結局押し切られて不承不承と外に出てしまい、こんなものが母さんの最後の言葉となった。

 耳をつんざく音にはっとした。
 犬の鳴き声によって、追憶は風呂の排水栓を引っこ抜かれるみたいに渦を巻いてどこかへと流れていき、現実へと戻った俺の手にはリードが握られていた。
 ゲージの中から「お? 散歩行くんか?」とでも言いたげな犬の視線が刺さる。ただどこか「お前と行くのかぁ」と残念がっているようにも見えて、責任転嫁も甚だしいが、少しだけイラっとした。俺だって、やりたくなんてない。
 仕方がなく犬をゲージから開放し、はしゃぐ様子に気を遣われている感覚を受けながらリードをつけ散歩の準備をしていたとき、居間の戸が弱弱しく引かれた。
「おはよう」
 怜君が目を擦りながら起きてきた。炬燵に入るよう促して俺は散歩へ行こうとしたが、このまま一人にさせるのも気が引けてしまいどうしようかと考えていると、
「まんぷくお散歩?」
 まんぷくとは犬の名前だ。「そうだよ」リードを見せ「怜君も行く?」会話のつなぎに困って口走った言葉がそれだった。
「いく!」
 またしても、この小さな生き物には関係がないらしかった。遠慮や配慮や心配りだなんだと言って本音を隠すことだけに長けた体が大きいだけの人間とは違い好感が持てる。
 怜君の着替えを手伝い、防寒着を着せて外に出た。雪を踏み口から漏れ出る熱は白く染まって足跡と共に後ろへ引かれて道ができていく。
 頬を鋭く切りつける風の冷たさにショートした思考の熱を奪われる心地よさから冬を感じる。その冷たさに多少の温もりが混じっているのはきっと、俺が一人ではないからなのだろう。
 楽し気に三歩先を歩く一人と一匹は別世界の住人に思えてならなかった。俺がそこに行く資格もましてこの光景を見ることさえ、本来ならあってはならないはずだ。傲慢にも後ろめたさなどという感情から、巡る終わりのない迷路に現実でも足が止まってしまっていると、
「どうしたの?」
 怜君が戻って不思議そうに見上げていた。
「なんでもないよ」笑って誤魔化すというのは大人の特権のように思えてならなかった。「そういえばね」脈絡を失った言葉が俺の足元に落とされ、
「昨日おばあちゃんがきたんだよ」
 作り笑いは驚きに呑まれて見えなくなった。「そうなんだ」精一杯の答えであった。
「おばあちゃんといっぱい話したんだ」
「そっか。おばあちゃん、何て言ってた?」
「うーんとね。おっきくなったねって。もうお兄ちゃんだねって言われた」
 もらった言葉を大事に抱えている怜君を見て泣きそうになった。
 怜君は言ってほしかったはずだ。母さんは言いたかったはずだ。
 俺が、死ぬべきだったんだ。——これも、俺の願望なのだろうか。
 足元が覚つかずなおも立ちすくんでいる俺を見た怜君に「大丈夫?」と気を遣わせてしまう。
「大丈夫だよ」
 ちゃんと笑えたか分らなかった。「それとね」途切れていた会話の切れ端を強引につなぎ合わせた怜君が、
「おばあちゃんがね、まささんに教えてあげてって」
「……何を?」
「『まささんのせいじゃないよ』だって」
 言葉が耳に届いていたときにはもう、膝がひとりでに折れて雪を踏んでいた。目線が怜君と同じになっていることが不思議でたまらなかった。
 俺の頬にだけ生温い雨が降ってきて、雫はきれいに顎まで伝って落ち雪を溶かした。
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫だよ」
 言葉がただの記号になって崩れるまで何回も自分に言い聞かせていた。「ごめんね」もそれと同じくらいの頻度を持って壊れていく。声が震えているのはきっと、寒さのせいに違いない。
 もはや会話になっていないことは明白であったが、やはり気にしていない小さな生き物は、未知の生き物に恐る恐る触れるくらいの慎重さで、俺の頭を撫でてくれた。思わず抱きしめてしまう。
 どれくらいそうしていたのだろうか。一向に落ち着こうとはしない俺を見かねたのかそれとも飽きたのか、
「まんぷくおしっこ!」
 怜君は俺の腕の中からするりと抜けだし、犬の方へと駆け寄った。その後ろを目で追う。
 雪の上、まっさらな白の画用紙に誤って水で薄めた黄色い絵の具を筆から垂らしてしまったように、湯気を立てて溶かし広げていく小便を犬は満足気にしていた。
 色づきを見せた世界に、鳥影が一つ足元の影をくぐり抜けて閃いた。追って振り返り、見上げた空は、宇宙を遮っていたあの灰色の境界が切り開かれ、太陽の鬣が地に伸び垂れるがごとく隙間から覗く充満した光の束で呼吸を忘れさせるほど魅了していた。




 未明の空、純真な恥ずかしさから頬を染める赤々とした、若い恋慕のような朝焼けに目を焦がした。夜の闇と静寂から光と色が壮大な音楽と共に息を吹き返している時間的経過の贅沢さに包まれながら、何かに急かされ支度をし、荷物を持って玄関を出ようとすると後ろから声がした。
「いってらっしゃい」
 どこに、とは訊かれなかった。
「いってきます」
 扉に向かう声はたしかに母さんへと届いたのだと思う。その証拠に後ろで微笑む姿が浮かんだ。
 車に乗り込みエンジンをかける。フロントガラス越しに覗く世界はもはや、俺の邪魔をすることはなかった。
 視界はもう、澄み切っている。