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学生時代の自分に言いたいこと【キャリコン編集部】

「キャリコンサロン編集部」からの、今週のタイトルは「学生時代の自分に言いたいこと」。とりあえず、大学4年間を振り返ってみたいと思います。

■初めての一人暮らし

学生時代、高校まで過ごした宮崎を離れ京都で4年間を過ごしました。初めての一人暮らしでした。家庭的な下宿を求め、修学院近くの4人家族の家の2階の部屋を間借り。風呂は近場の銭湯へ。門限が23時で、門限を過ぎると家に入れず、そんなことも有り、3か月程度で、八幡前の下宿へ引っ越し。ここも大家が下の階にいて、2階の3部屋をそれぞれ3人で間借りでした。他の二人は専門学校で年齢は先輩でした。結局、この下宿には2回生まで住み、残りの2年間は、銀閣寺近くの北白川下別当町の下宿。大家さんとは別の離れの部屋でした。四畳半一間でしたが、新築で家賃は1万5千円でした。但し、風呂は無く、トイレと洗面所は4人の共同でした。

今思えば、実家を出ての一人暮らしは、自分を成長させることが出来たと思います。実家では、洗濯物を干したことも無く、1件目の下宿のおばさんが、干し方を教えてくれました。今思えば、単純なことですが、広げて干すということだけですが、その時は、ただハンガーに無造作にかけただけでした。

実家からの仕送りは6万円でした。家庭教師のアルバイトで2万円合計8万円を何とかやりくりしていたのを覚えています。銭湯が確か110円くらいだったと思います。当然、毎日は行けず、2日か3日おきに行っていました。

■専攻

学部は商学部ゼミは「損害保険論」でした。卒論「これからの自動車保険」。正直なところ、講義については、そこそこ出席はしていましたが、あまり一生懸命勉強してなかった気がします。大学には立派な図書館も有りましたが、十分には活用してなかったですね。今思えば、ちょっともったいなかった気がします。

卒業後、外資系損保に就職することになりましたが、何と「損害保険論」のゼミにも拘わらず、損保に就職したのは、私ひとりでした。

■サークル活動

4年間「ESS(English Speekinng Society)」ドラマセクションに所属しました。いわゆる英語演劇です。年に2回公演を行います。公演が近づくと、夜はほとんど毎日稽古でした。日常活動の中では、毎日「ランチタイムミーティング」を英語で行います。このおかげで、外国人に対する抵抗感は無くなったと思います。その結果、妻ともこのサークルで出会い、卒業後に結婚しました。

■観劇

数多くの芝居を観に行きました。一番印象に残っているのが、劇団そとばこまち「熱海殺人事件」です。この作品を観て「つかこうへい」の大ファンになりました。

*劇団そとばこまちとは
1976年に京都大学の学内サークルとして「劇団卒塔婆小町」が発足、二代目座長 辰巳琢郎のもと劇団名を「劇団そとばこまち」に改名。

■アルバイト

様々なアルバイトを経験しました。

4年間を通じてやったのが「家庭教師」で小学生を教えました。週に2回、八百屋さんの息子さんと娘さんでした。賄いつきだったので、2度の食事は、とても助かったのを覚えています。

単発でやったのが「映画のエキストラ」京都太秦映画村でのバイトです。今でもはっきり覚えているのが「影の軍団 服部半蔵」。主役が渡瀬恒彦、山村聰、金子信雄といった大物俳優が出演していました。私は、外様大名の役で、ちょんまげのかつらを被って出演しました。休憩の間、ストーブの周りで、直接話ができたのは貴重な体験でした。作品完成後、映画を観に行きましたが、ほとんど後ろ姿だけでしたが、懐かしい思い出です。

他には、就学旅行の添乗員をやりました。大阪の中学生を新幹線で、萩・津和野~広島の宮島へ。新幹線が駅に着くたびに、生徒がホームに降りないように監視したり、食事の前は、足りないおかずが無いかのチェック、そして、今だから言えますが、先生方の宴会会場に生徒が行かないための見張りなど・・・。そして添乗員は、その合間をぬって、食事をかけこむ。とにかくくたくたになりました。正直、この体験のおかげで、旅行会社への就職は無理だと諦めました。

季節のバイトでは「吉田神社」の節分祭りの設営。大工さんたちとの会話は楽しかったです。

デパートの会場設営も何回か経験しました。デパートが閉店後、21時か22時からのバイトでした。何時までやっていたのか、記憶には有りませんが、恐らく徹夜の作業だったと思います。

一番長く通ったのが、某織物会社の商品試験室。そこでは、じゅうたん、カーペット、飛行機の座席や新幹線の座席のシート、緞帳などを作っています。仕事は、それらの商品を燃やす「燃焼時間の計測」や、引っ張ったり、叩いたりといった試験でした。もちろん計測機会を使ってです。社員の皆さんが皆優しい方ばかりで、昼休みには卓球をしたり、飲み会やスキーツアーにも連れて行ってもらったのも懐かしい思い出です。

*おまけの話

当時、アルバイト代は、日当3,000円くらいだったと思います。ラジカセが約3万円でした。すなわち10日間働いてやっとラジカセが買えたわけです。今なら、ラジカセは3万円もしないし、いやラジカセはもう売ってないかな?ステレオコンポが6万円くらいでした。20日間一生懸命働いて、やっと手にしたのを覚えています。それと、喫茶店で飲むコーヒーが、250円か300円くらいでした。中華の天津飯が350円くらいだったので、学生にとっては高い飲み物でした。

■最後に(学生時代の自分に言いたいこと)

改めて学生時代を振り返った時、我ながらなかなか頑張ってたなと思いました。本当は、地方の国立大学を目指しましたが、結果は不合格。それでも、都会の大学に行けたおかげで、様々な経験が出来て良かったと思っています。しいて言えば、読書の量がちょっと少なかったと反省しています。せっかく立派な図書館があったのに・・・。それとせっかく京都にいたにもかかわらず、もう少し歴史の勉強をして、京都散策しても良かったかなと思います。ただ、当時はお金があまりなかったので、拝観料を払う余裕がなかったのは事実ですが・・・。

最近は、京都へはなるべく足を運ぶようにしています。マラソン仲間と「京都観光ラン(走りながら京都観光)」も何度か行いました。そのおかげで、昔行けなかったお寺や観光地へも行くことができ、改めて京都の良さを再認識しております。



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