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ぼくはいい子じゃない



「なんでこの子は」


遥子は、座り込んで自分の息子を見上げていた。

ひょろっと背の高い、それでいて、どんな靴下を履かせても靴下の中で脚が泳ぐほど細い、真っ黒な髪をした子供。それが彼女の長男、聡太である。

彼はニコッと笑い「ママ」と遥子を呼ぶと、正面から抱きついてきた。


「ダメよ、赤ちゃんがお膝にいるじゃない」

聡太の足は結果として、母の膝の上にいる弟の修二を蹴っ飛ばす形になってしまった。生まれて半年の修二は、それを避ける術を持たない。泣き出す。

「ほら、泣いちゃったじゃないの。シュウちゃん、いいこいいこ…」

「ごめんなさい」

聡太はくしゅんとして下を向いてしまう。


遥子だってわかっている。この兄弟は3歳差…上の聡太だって3歳になってまだ少ししか経っていない。悪気はない。むしろ悪気なんてものをまだ知らない小さい子供だ。

でも、遥子自身もまだ30歳だった。夫の功二はサラリーマンで、カレンダー通りに出勤していく。二人の子供に向かい合うのはほとんどが遥子だ。



生まれたばかりの修二はまだ寝返りも打たない。静かに寝ているだけなので基本安心だ。時々こうやって、膝に乗せて、ミルクを飲ませるだけで済む。

しかし、3歳を超えた兄の聡太はそういうわけにいかない。静かにしていると思うと部屋の隅でよからぬことをしている。

先日は、クレヨンで壁画をこさえてくれた。彼の身長一杯一杯まで「ぱぱ」「まま」「ぼく」「しゅうちゃん」が描かれていて、実に愛に満ちた良い絵なのだが、寝室の壁に描いてくれなくてもよかったのに…。

遥子は思わず子供に手を挙げ、そして子供と一緒に大泣きに泣いた。


「子供のやることだろ、壁紙くらい替えてやる」

功二は、ママに怒られたことをすっかり忘れている聡太を抱き上げて、妻を嗜めた。

「こいつだってイタズラ盛りなんだし」

「あなたはこの子達とたまにしか会わないからそんなことを言えるのよ!」

遥子は少し神経衰弱に陥っていた。

「ソウちゃんと一緒だと、買い物にもろくにいけないのよ」



遥子の言い分もわからんでもない。

このイタズラ坊主は、何しろ言葉数が少ない。3歳の誕生日までほとんど言語を発さなかった。3歳になった頃から急に喋り出し、今ではうるさいくらいなのだが、遊びなどで夢中になると本当に静かになる。

静かな時ほど、大人にとって都合の悪いことをしている。


スーパーに出かけようものなら、遥子が少し目を離した隙に野菜のワゴンの下に隠れ込んでしまうのだ。

狭いところが好きで、そうなるといくら呼んでも出てこない。やっとの思いで見つけると、ニコニコしながらワゴンの下から出てくる。

「見つかっちゃった」

ちゃめっ気満点でそう言われると、遥子は目の前がクラクラしてくる。



「早くシュウちゃんが保育園に入ってくれないと、私、気が狂っちゃいそうだわ…」

修二が保育園に入れば、遥子はまた仕事に出始める。この幼い兄弟…特に聡太とずっと向き合ってなくても済む。



お空が綺麗



「ねえ、あなた」

遥子はノートP Cを開き、インターネットのあるサイトを見ながら夫に呟いた。

「うちの子、これじゃないかしら…?」

そこにあったのは『3歳児の発達障害の特徴』という記事だった。


「ふむ…『落ち着きがない』『話を聞いていられない』『こだわりが強い』『片付けが苦手』…」

功二はそれを読み上げながら、また隅っこで何かやっている息子の姿を見て、少し考える。

(病的か?子供ってそんなものじゃないか?)

喉まで出かかった言葉を、飲み込む。

…正直、うちの息子にそんなに問題があるとは思っていない。保育園でも友達とうまくやっているようだし…ひとり遊びが多いとは言われているが…、イタズラ者ではあるが、屈託なく笑う良い子だ。


しかし、ここで問題になっているのは、多分長男のことではなく…妻のこと、なのだ。妻がノイローゼ気味なのは、わかりやすく功二にも入っている。

妻が納得するのならば検査を受けさせてもいい。功二はそう思った。

別になんでもないだろうが。



児童発達の専門医に聡太を診せたら、医師はにこやかにこう検査結果を話してくれた。

「ソウちゃんね、多少発達に遅れがあるかもしれないけど、あまり問題はないわよ。数値には何も悪いものは出てないし、むしろI Qなんか高い方。子供のことだからあまり当てにはならないけど」

聡太は女医に抱っこされて大人しく窓の外を見ている。

「この子の問題は、好奇心が強すぎることかしら。テストするのは大変だったわね。テストの内容より、私の聴診器や、デスク上のペンや、それに…」

医師は可愛くて仕方がないように腕の中の患者を見つめた。

「今だって、この子の頭の中は窓の外のことでいっぱいよ」


そして、頭を撫でて尋ねる。

「ソウちゃん、何見てるの?」

「お空が綺麗」

うっとりと窓の外の青空を見つめる聡太は、背に羽が生えて飛んでいきそうなくらい機嫌が良かった。


結局「発達障害の傾向あり、ただし障害としては認められず、就学時に要再検査。好奇心旺盛であり、知的な遅れは全くない」という診断をもらうにとどまった。



お兄ちゃん



運よく、聡太と修二は同じ保育園に通うことができるようになった。

本当にこれは「運よく」でしかなくて、もしも同じ保育園に入れないとしたら各々を別個の保育園に送り迎えをしなくてはならないことになったはずだったのだ。

本当に、この制度はなんとかならないものか。



初めて修二を保育園に置いていくときには、当然大泣きに泣かれた。赤ん坊でも母親が自分を置いていくということは理解できるものである。

これには遥子は仰天した。

いつも一人で預けていた聡太は、後追いを全くしない子供だったからである。保育園に到着すると、この子は大好きな友達や遊具の方に一目散に駆けていった。だから、そのことで苦労することがなかったのだ。


「あらあら、お兄ちゃんと違って、ママと離れるのは怖いかな?」

保育士が修二の機嫌をとって遥子から息子を引き剥がそうとする。でも、そうされればされるほど修二は母の服の胸元を握って離さなかった。どんなにしても保育士に抱かれない。


一度はお気に入りの遊具の方に駆けていった聡太が、母のところに戻ってきた。

「ママ、シュウちゃん」

聡太はまだ連続して3語までしか話せない。ニコニコとしながら何か言いたそうにしている。

「うん、シュウちゃん、今日からソウちゃんと一緒よ」

保育士が聡太の頭を撫でると、聡太は母に修二を抱いたままの姿でしゃがませた。

「ママ、座って」

すると…


「シュウちゃん、ソウちゃんといっしょ」

そう言って、なんと修二を抱っこしようとしたのだ!

「危ない!」

保育士は、バランスを崩して尻餅をついた遥子からすんでのところで赤ん坊を引き取った。

「あなたに抱っこは無理よ」

保育士が困った顔で聡太の頭を撫でると…


修二は、聡太の方に両手を伸ばし、抱っこを求めていた。

保育士が床の上に修二を置くと、聡太は小さい弟をじっと抱きしめた。

弟はぎゅっと抱きしめ返し、もうママの方を見ていなかった。


「長山さん、今のうちにご出勤くださいな」

保育士はそーっと二人の様子を見ながら、遥子にそこを去ることを提案した。

「ソウちゃんが突然お兄ちゃんになっちゃったわね…」

遥子は狐に摘まれたみたいな顔をして、子供たちを保育園に託した。



ぼくはいい子じゃない



「なんていい子じゃないか」

功二はその話を聞いて、夢中でレゴを組んでいる聡太の頭を撫でた。

「一応弟の存在は認めてるんだな」

そう、父親に言われるくらい、兄は…弟という生き物に興味を示していなかった。

スケッチブックにクレヨンで色を埋めたり、レゴを大人にはわからないように組み上げたり、下手をすると家の中に入ってきた蜘蛛をじっと見つめていたり、そっちの方が好きなように見える。

外に出かけると、雑草が気になって30分そこから動かなくなったり、お花が綺麗で摘み取って髪に挿して歩いたり、雨が降ろうものならわざわざ水たまりに足を突っ込みながら歩いたり、いろんなことに興味を持つのに、弟には興味を持たなかった。


「それが、そうでもなくて」

遥子が苦笑する。

「どうも、私を助けてくれてるみたいなのよ。登園の時だけシュウちゃんのことを撫で撫でしたり、抱っこしたりしているみたい」

父に頭を撫でられながらもレゴに夢中になっている聡太を、母は不思議な目で見ていた。

「ソウちゃん、まだ『ママのお手伝いをする』なんてこと、考えてないでしょうに…」


「いや、わからんよ?」

功二はニコニコしながら聡太の頭を撫で続ける。

「意外とわかってるかもしれないよ?小さいからって馬鹿にしたもんじゃないかもしれない」

「意外といい子なのかもしれないよ」


しかし、それは…遥子の中では一瞬にして覆った。

「ちょっと、ソウちゃん!さっきの牛乳、ここにこぼしてたのね!!!今日は大人しく飲んだと思ったのに、嫌いだからって捨ててたなんて!」

そしてぷりぷりと怒りながら、言い放った。

「この子、いい子なんかじゃないわ!」



世代交代



実里…修二の妻は、かつての姑、遥子のように子供に対してヒステリーを起こしかけていた。

彼女の状況の悪さは、姑よりもさらに上を行っていた。ふたりいる男女の子は双子なのだ。

「もう!灯子!どうしてそう黙ってイタズラをするの!」

「黙ってなくてもイタズラしないで欲しいけどね」

修二が灯子を抱き上げている間、床一面に描かれたクレヨンの跡を実里は一生懸命拭いて消した。


その様子を見ていた遥子は、灯子の双子の片割れの亮太を抱きながら、そばでコーヒーを飲んでいる上の息子の聡太を見る。彼はもう、30歳になろうとしている。

「灯子はあんたにそっくりね」

「遺伝?」

聡太は笑いながら修二から灯子を引き取る。手が空いた修二は実里の手伝いをするために雑巾を絞りに行った。


「大人しくて手がかからない亮太は、修二そっくりね。どうしてこういう組み合わせになっちゃうのかしらね」

そして遥子は亮太をあやす。

「ばあばはリョウちゃんもトウちゃんもどっちも好きよ」

「何を言ってるんだ」

功二は遥子の後ろから笑う。

「実里さんの立場になったらどうなんだ」

「まあね」


「俺、そんなに酷かったの?」

聡太は姪の灯子の口の中に卵ボーロを放り込みながら言う。

「そりゃもう」

両親が口を揃えてそれを肯定する。「トウちゃんなんて問題にならないくらいにね」

それを聞いた修二と実里は、ツボにハマったように笑い出した。

「そんな酷かったんだ!」


「あんたも子供ができてみたらわかるわよ」

遥子は聡太の背中をばんっと叩いた。

「そっちはまだなの?」

「そういうのは、神様の思し召しだからさ。俺にも嫁さんにもどうにもならん」

のらりくらり、いつものように逃げながら、ふと窓の外を見つめる。


「ああ、空が綺麗だ」


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