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49日目 よまいごと 4/5点

クオリアという言葉を聞いたことがあるでしょうか。心象のうち、主観が感覚的に捉える、質/体感そのものの事です。もう少し噛み砕いて言うと"感じ"そのもののこと。例えば色のクオリアなら、赤色を頭の中に思い浮かべ、漠然と赤色をイメージすることはできると思います。その"赤い感じ"そのもののことです。"感じ"そのものを相手に体験させることは不可能です。それを言葉で説明するとなると、リンゴや苺のような…とか、あの燃えるように熱い…とか言葉を使った例えを用いるしかありません。少しアカデミックに言うと、可視光線のスペクトルのうち赤色と定義された波長のもの、でしょうか。そもそも"赤"という名前自体が感覚器が捉える現象に便宜上名前を付けただけなものに過ぎず、"赤のクオリア"の世界には一歩も近づけないままです。

「このリンゴみたいな色なんだよ!」と直接見せたところで、クオリアを心象から取り出して直接見比べている訳ではないのではありません。なので、あなたの赤いクオリアは相手の青いクオリアかもしれない、という疑惑は絶対に拭い去れない。これを意識のハードプロブレムと言います。

これは色に限定された話ではなく、感覚全てに言える話です。グラスに付いた水滴が触れてひんやりとした"あの感じ"、酔っ払って楽しい気持ちになった"あの感じ"、二日酔いで頭がズキズキと痛む"あの感じ"、…etc。そう考えると、私たちは私たち自身が思っている以上に孤独な生き物なのかもしれません。心象の世界にある"あの感じ"を真に共有することは、他者と物理的にしか干渉し得ない私たちには不可能です。心象の檻に閉じ込められていると言える。おれにとっての世界は、お互いに姿も見えない別の檻の囚人同士が大声で会話している、ひどく奇妙で滑稽なものに感じられてならないんです。

私たちはこの世界をすべて言葉で解釈しているでしょうか。おれはわりと、思考そのものはそのまま言葉で行っている方だと思っているのですが、それでも到底全ての感覚を言語化しているとは言えません。意識を写すカメラがあって、あなたの心を記録したとして、その殆どはクオリアや概念など形而上学的なものではないでしょうか。面白いネタツイートを見て笑ってしまった時、(こういう理由で吹き出した)とわざわざ頭の中で言語化しないですからね。

それでも私たちは言葉や身振り手振りで、必死で共感を得ようとします。心象の檻の中にある寂しいという、あの感覚から逃れるために。でも、どうあがいたところで、どれだけ物理的な距離を縮めたところで、意識を通してしかこの世界を認知できない。それは共感や相互理解とは程遠いでしょう。何万文字もある文章だって「わかる」の3文字だっておれからすれば、何も変わらないんです。もし夢で会う約束なんてものができたら、その中で言葉にできない全てを共有できるのに。

おれが言っていることは今皆さんに伝わってるのでしょうか。今日のnoteは、思っていることを全部言語化することに挑戦しようかなと思っていたのですが、辞めました。それに対する言い訳を書きました。とにかく、全てが滑稽で馬鹿らしいと思える夜がしょっちゅう来ます。考えることを放棄できるなら今すぐにしたい。よく、人から考えすぎと言われることがあるんですが、何も考えずに生きられることも才能だと思います。脳裏に染み付いて離れない、考えるという悪癖におれは一生苦しめられるでしょう。しかし他者との関わりに対する苦手意識を始めとする、おれの悩みのすべての本質的な根元はここなのかな、とは思いました。

もしこの文章を読んで、誰かに考えるきっかけを与えたなら、おれからすると最早それは呪いだなと思うんですが、大丈夫です。それは、今おれが感じていることの1割も言葉に出来ていないと思うから。更におれが言っていることが皆さんには1割も伝わっていないと思うから。もっと上手な文章を書けるよう、無駄な努力に励もうと思います。言葉を交わす、というグロテスクさの一端を少しでも分かってもらえたならそれで良いんでしょうか?最後を疑問で締めてしまうとは情けない。というか、おれ、他人どころか自分自身のこともちゃんと分かってないな。まずは自分を理解するところから始めます。

それでは皆さん、今晩夢であいましょう。

さようなら。

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