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By Madam.1 「わたしに必要なのはわたしの足元だけ、そしてその足元はわたしだけのものだ」

しれっとマガジンタイトルを変えてしまいましたが、このマガジンの再開にふさわしい奇妙なやりとりを2019年の業務提携先のスピリさらなんとしましたので、ここに記します。長いタイトルですが言いたいことは

「女王よ、さようなら!」
「前世なんか知らない、カルマも知らない、わたしは今世だけを全力で生きている」「タフな心の持ち主になるには足元を大事にして足元から丁寧に生きていくしかない」
以上。笑。

2022年、初夏の修善寺旅行にてAMAGISOのプール。宿泊したわけじゃない。
偶然立ち寄ったが最高であった。

店をやるというのはスピリチュアルの修行には最強で、
スピリチュアルというなんとなく”輪郭”しかないようなふわっとした感じの言葉や状態のものが実は全ての答えなんだということを、実体を持って教えてくれる凄まじい人生の先生である。
五感を研ぎ澄ましてやらないと店はすぐ潰れる。
「気のせいかな」って思ったことを「気のせい」にしてるとエライことになる。そう、全てが日々の営業における事件として反映され、
「なんとなくそう感じる」ということをおざなりにしてしまうと、それはみるみるうちに高い禍の津波となって店ごとを呑み込んで行く。

なので五感をそばだてながら3年店をやって、正直わたしは”そっちの方”のレベルもぐんと上がった。なにせわたしは現在、根津のソウケツと言われておるくらいであるからして。笑。

中村幸子さんによるわたしの肖像(2022)
「蒼頡(そうけつ)」は漢字を作った伝説の人物らしい。by Wikipedia

そんなわけで、4年目を迎える最近は「感じる」ことに感じては随分と的確になってきた。
おまけに今はスピの方面に関しては「ムムム、これは」と思ったらすぐに相談できる、スピ的解像度の高い知人も数人いる。
なので2018年のこのnoteにおける投稿に関しても「まだいろんなことがわかってなかったな」と思ったりはする。でも「まあまあいい線いってるし何より真摯に頑張っておる」という感じが当時の筆致から受けたので、基本的には記事も全部残した。
(新刊出てからまたこまめに見直して修正が必要な記事は直しておきます)


↑この作品はスピ色皆無ですが、2019年に一旦筆を置いたこの記事に載せた動画と連動しています↓

ケイシーマスグレイブズ/Rainbow

先日このnoteをちょこまかいじったのは、3年の修行の結果自分がわかっているのは「おざなりになっているもの」や「停滞しているもの」その揺蕩っているエネルギーをそのままにしておくのは、なんていうのだろう『使っていないサブスクに支払いだけしている状態』に近いということ。
なので新刊刊行を前に、何かここを動かさなくては、と思い、
その日直感的に「こうしたらいいと思えること」をやった。

変な感じがしたのは次の日に起きてからで、どうも「ヤな予感」がしたのである。それは何ていうか
「寝た子を起こした」「つついてはいけないものをつついてしまった」
ようなそんなような感覚。

すっごい恐ろしいものを叩き起こしたかというとそうではなく、
巨神兵が眠っていたとして、その肘のあたりにコツ、とぶつかってしまったようなそんな感じ。今ならなんとかなる。しかし何かをせねばならない。

夏目漱石で有名な修善寺の「菊屋」

そして(我が察し力はここまでである。涙)と思い、
スピリさらなんにLineをした。彼女からはすぐに2019年から始めていたセカンドシーズンマガジン(旧タイトルは「不器用さんに捧ぐ、ポッペンバッザーグ女王の叡智」)のスクショが送られてきた。

引っかかるのは2019年の4月?かなぁ
手放さない。を決めている中に魔法の杖に類するものがあって
手放さない事で営利はあるけど同時に負荷もついてくる。

〈さらなんからのLine〉

その後送られてきた言語が難解すぎたので、
電話で話すことにした。15分話し、そして非常に納得をした。

その内容は面白くて、わたしは昔から「女王」「女帝」「王女様」「王室」的な過去性をその筋の人たちから言われたり、なんとなく現実の人生でもそのように扱われるような雰囲気があるのだけど、彼女曰く、
「それは浅いところの意味合いで、わたしが見る限りは、女王というより女王に取り込まれている感じ」

「なんとなく女王”気取り”をできるような管理権限を与えられているけど、その権限すらも背後にいる女王に管理されていて、そして別に何かを後押ししてくれるものではない。そしてモカコさんは自分のものを、自分のものなのに”与えられたもの”と感じるように心内側で設定されている」


だから現実的にお店でも「モカコさんを女王のように扱っている人は実はその立場を取り込んで自身が得たいものがある人」なのだという話で、

わたしが感じた嫌な感覚というのは「その本能的に取り込まれ搾取されている感覚」であり「今モカコさんはその生き方を再び選ぶかそうでないものを選ぶかの岐路」とのことであった。

つまりその「魔法の杖」を持たせてもらっていることで女王然とした利得が漠然と得られるけれど本質的なものは全て搾取されるのがその仕組みということなのかな。そして「魔法の杖」以外の何か、が、たとえ自身の持ち物であっても「持たせてあげているのよわたしのものを」と女王に思わせられている洗脳状態ってことなのかな。

アラビヤのリワ砂漠のホテル(2015年)

「なるほど、今どうあるべきなのかな?」と訊いてみたら

「別にモカコさんが今していることは全部モカコさんが自身の力で行なっていることだから女王である(女王ぶる)必要がないですよね。女主人と小説家という立ち位置で生きていくことはいやですか?」

とさらなんさんは言った。

by Sachiko Nakamura

その時にわたしが想ったのはこの絵のことだった。幸子さんが描いてくれたわたしの肖像がこれなら、わたしはもう誰かに理解されたりわかってもらうために「社会的地位」を獲得する必要はない。と、5月に強くそう思った。
多少読みやすくラノベっぽく書いた筆致のことや、だけど本当は伝えたかった深層の物語のことなんかも、この表紙があれば一切説明なんかいらない。
こんな美しい顔でわたしの本が人々の手に渡るのなら。
この2年の新刊への道のりはそれはそれは過酷であったしたくさんの大手出版社から手のひらを返されたような態度も取られたけど、それでも編集を引き受けてくれた盟友がいて、本はなんとかゲラになって、素晴らしい才能を持つ装幀デザイナーが全力で「やらせてください」と言ってくれて、そして幸子さんがこの絵を描いてくれた。
この絵を見たとき、もうこれが自家出版なのでとか大手がとか、
これを機に著名性を高めてとか、根こそぎどうでもよくなった。

だって。とっても理解されているじゃん。
身近な人々に理解され精神的に豊かな毎日を送ってる。
根津の酒場の女主人兼小説家。このままでいい。

わたしは、わたしの足元、直径24センチの円の暮らしが充実していればよくて、そしてそれは充実している。

友人夫妻が手がけてくれたシルクプリントの「版」

「女王、要らない。女王じゃなくてもいい」
だってそもそも女王でありたいのではなく、あちこちでそういうことをスピの人たちに言われるから何か女王然とした仕事をせねばいかんのかと思っていただけなの。そういうとさらなんは言った。
「そうじゃない、取り込まれていただけで女王ではない、女王然としても女王じゃない」

だったら余計要らない。
あのね、わたしさ、今、本当に等身大以上の自分に全くなりたいというかならなきゃとかも思わなくなったの。

それがいいと思います。さらなんは言った。

「モカコさんが等身大でいるというのにはパワーが発生するんです。
なんていうかまさにあのほら、モカコさんの新刊の絵のような感じ。あの感じでいてほしい」

そうそう!わたしもなんかあの絵を描いてもらってから「わたしってこれだ!」って思ったの。そうだねあの絵の女の人は女王ではないし、女王である必要もない人だね。

そんな話をして、いろんなことが腑に落ちたわたしは電話を切って、
女王とサヨナラをした。

記事を直しながら気づいたことがあって、それは「女王然とした立ち位置は本当に立ち位置だけをふわっと与えて、大事なものは全部横取りされるってことなんだ」ということ。

あの頃わたしは「これはわたし自身(モカコ)の言葉」「これは女王の言葉」という風にタイトルにすぐわかるようにカテゴリ分けをしていたけれど。実際は当たり前だけど、全部わたしが書いたもので、わたしが感じていたことだよね。それを「女王の言葉」という風にしていたのは、さらなんが言っていたように「これは預かった言葉だ」と思い込まされていた、
何かなんだろうな。

それがカルマというものだとしたらそんなのクソくらえである。前世の残業を片付けるために今世肉体を持って生まれてきたわけじゃない。

↑それについては2021年に嫌という程それを感じたので現在カルマ全無視の方向で生きています。笑

でもさ「立ち位置だけはふわっと与えて実像を全て横取りする」って、スピというよりも現実社会の中にすごく散見される状態だよね。
わたしの知り合いにもそれこそ若い時に自身が発表した論文による対価と才能を全部その時の教授に搾取され随分苦汁を飲ませられた化学者がいる。
その人はそういう思いだけは自分が育ててく天才にさせられないって研究室で頑張って今年教授になった。

こういう話を聞くと椎名林檎の「ありあまる富」をいつも思い出す。


だけどどんなに狡猾なやり方をしても、きちんと日々を積み重ねていれば、足元だけは奪えないから。足元というのは日々の暮らしであり、自身の鍛錬と努力のことである。足元を掬われるという言葉があるからには、そこを突いてくる女王とか、女王とか、女王が、いるんだろうけれど笑、
今回わたしは足元を掬われなかった。

それにはこの3年における過酷な修行があり、
丁寧に生きてきた日々や真摯に積み重ねてきた人との信頼関係があり、
だからこそ相談できる「解像度の高い誰か」がいたのであり、
それはやっぱり運とか引きとかでなく、わたしそのものの資源である。


29歳で女優になれずサクッと作家にはなったので、
努力意味ないな才能が全てなんだわと思い、運命主義者的に30代を生きてきたけど、この3年を経て、改めて自分は「努力至上主義」に回帰した。
「努力」という言葉は「ストイック」と同義語のように扱われているから努力しても報われないことがあるみたいな感じなってるけど、それは「ストイック」の場合と思うな。ストイックはアプローチの問題で、そのやり方が合わない人もいる。ストイックを努力と思ってしまっているから、
そうじゃない方向の努力家を人は強運の持ち主みたいに思っているけど、
わたしが思うに「努力」とは投げ出さないことであり、投げ出すと決めた時は勇気を持って投げ出す、つまり覚悟を持って何かを選択することであり、
怖くとも自身の心を磨かれた鏡に毎日映して「自分と向き合う」ことである。

この2年の過酷な執筆を終えた今わたしは作中の言葉が誰かからの預かりものだなんて思わない。一言一句間違いなく、血のにじむような苦しみの中で自分が選択したフレーズである。フレーズは魂と結託しているからフレーズだけを誰かが盗んでもそれは抜け殻を持って逃げただけのこと。


うん、つまりはそういうことなんだな。
さようなら女王、さようならわたしを操ろうとするエネルギー。

足元を大切に日々努力をしていれば、
わたしから誰かが盗めるものは何もない。

あなたの足元が、あなただけの豊かな資源であるように。

それではラララ♪(懐かしい。笑)。
またイーディ奥の間でお会いしましょう。

本日より全ての言葉はMadam.Mからお届けします♫

嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ