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アメリカのおばさんの話


 小さい頃 触ったもの、色や感触や匂いについて、鮮明に覚えていることってありますか?
 私はその感覚を、創作のよりどころにしています。

 今回はアメリカのおばさんについての思い出です。

 ジャズを聴くほどお洒落な家ではありませんでしたが、戦勝国アメリカの明るいニュースにのっかり、アポロ月面着陸やビートルズ来日、コカコーラなど、人並みにアメリカ文化を素敵だと思う小学生でした。
 幼稚園のときに使っていた、ディズニーのキャラクターが印刷された12本組みのサインペンがお気に入りで、色も良いのですがプリントの金魚のキャラクターがとても好きで、ずっとつかっていました。(当時のサインペンは、なぜだか長期間つかうことができた)
 直接アメリカを感じたのは、母のいとこのおばさんです。アメリカ人と結婚して、ペンシルバニアに住んでいました。
 なんでも、終戦直後、やんちゃだった若い頃のおばさんがどこからの帰り道、米兵に教われそうになって、それを助けてくれた恩人と結婚したのだそうで、一度だけ日本であったことがあります。目のくりくりとした、人懐っこい、派手な、大きな声でいっぱいしゃべる人でした。
 若いときに渡米したせいか日本語が微妙で、途中で英語がまじり、会話にはすこし苦労しました。一度、私の通っている小学校に授業を見学に来られたことがあります。香水の匂いをまき散らし、混乱を巻き起こしながら実に楽しそうに、帰るときは寂しそうに帰っていきました。
 私へのお土産は、タイメックスの腕時計と、イチゴのネックレス。そのおばさんには子供が3人いて、しばらくはそのご家族と文通していました。当時は、アメリカなんて行ってみようとか考えもしませんで、そのたよりを楽しみにしていました。おばさんも、結婚して最初の頃はノリノリだったようですが、そのうち差別があって大変だとか、勤め先をクビになったけどまた仕事探すわとか、(若くして渡米したので)読みにくい日本語だけど愛あふれる、アメリカの生活を伝えてくれる内容でした。毎年のゴージャスなクリスマスカードはとくに楽しみに受け取っていました。
 私が生まれたとき、そのおばさんがアメリカから(たぶん)おくってくれたベビードレス、白地に赤の小花がプリントされ、ゴース(綿などの薄い織物)にカバーされ二重になったそのワンピースは、なんだかごわごわして私には合いませんでした。地色の生成りと赤の色は今でも覚えています。布についての記憶は鮮明なようです。
 そのおばさんが送ってきた物の中に、布の人形がありました。布に顔のパーツなどを手描きしてそれを切り取って簡単な縫製でしあげて、中に綿を詰めたもの。体が青で、髪の毛が黄色。青い目。体中に青い更紗がプリントされています。カントリー調というのでしょうか。
 その人形にさらに服を着せようと、要らないタオルを母からもらって、手縫いでふんどしとちゃんちゃんこをこしらえて着せて遊んでいました。「いなかっぺ大将」のアニメが好きで、ふんどしに憧れていたのです。小学校1年生には、手縫いはなかなか大変で、分厚いタオルに針を押し込んで縫うのに苦労した記憶があります。今思えば手拭いにしとけば良かったのですが(手拭いはなかったかもしれません)。なにか間違った遊び方ですが……。
 アメリカのおばさんからもらったアルファベットの児童本は今でも持っていて、何かあると絵の参考にしています。当時のイラストは手が込んでいてとてもかわいらしく、すばらしいのです。愛情いっぱい、今なかなか無いクオリティです。
 当時のテレビドラマでは、「大草原の小さな家」が放映されており、大好きなシリーズでした。開拓時代、お母さんが夜なべして縫ってくれる、小花のポプリン(縦糸を太くしたやわらかい平織の生地)のワンピース。ローラ・インガルス・ワイルダーの絵もたくさん描きました。私にとってのアメリカはそんな感じです。ソニーや本田といった企業の製品にはまっていき、アメリカを意識した企業、素敵な未来を説明してくれる会社が好きになっていきます。少しの間、英会話教室にも通っていました。セサミストリートで歌とともに英語を覚えました。今でもいくつかの歌は、歌えます。

露天商のおじさん

 そのころの私の服装というと、アメリカ+イギリス、ミニスカートやサイケ、アメリカのおばさんにまけないくらいオシャレにしていました。というのも近所に露天の生地屋があり(闇市のなごりです。団地のわきに、広場があって、オンワードの店舗やスーツ生地、子供用生地など日暮里みたいなところです)、その生地で母親に服を作ってもらっていました。どちらかというと「作らせた」にちかいかもしれません。母も相当オシャレが好きで、家にはドレメや装苑の雑誌があり、ティーンズ向けの本もありました。そのパターンを見て、「この生地でこれを作るの」とわがままを言い続けてきた、それが今に至ります。戦後すぐ、母親は洋服店につとめていたことがあるらしく(自分のことは語らない人ですが)、パターンを見れば作れたようで、納得のいくワンピースやスカート、編み機でセータを編んでくれたり、いま思うと大量の服を作ってくれてたんだと思います。公立学校に通う小学生としては浮いていたんじゃないでしょうか。
 ニットのグレーシルバーのパンタロン。パフスリーブのリボンの騎士風のワンピース。イチゴのアップリケの緑のスカート。黄緑のビロードのショート丈のチョッキにはライオンのボタンをつけました。玉縁のボタンホールがむずかしく母を困らせました。そういうのに緑のストッキングをはいて(ランドセルですが)、茶色のおでこ靴のヒールで小学校に通っていれば、先生にやんわり注意をされますが、逆に自慢するくらいで気にせず通っていました。それも受験前の、余裕ある楽しい子供時代の出来事です。
 今でも、いくつかその端切れは取っておいてあり、アトリエの貴重な資料になっています。

 アメリカのおばさんは、子供達が結婚していったとか、旦那さんが病気だとかいろいろあったようで、母とのとりきめでこれからは無理せずそれぞれ生きていこう、になったようで、その後を知りません。もう亡くなってるんじゃないかなと思います。お子さん達が幸せになっているといいなとおもいますが、私の記憶は、その家族が青いバックでにっこり笑う、家族写真のままです。
 ゴージャスなクリスマスカード、今でもアメリカでは交換されてるのでしょうか。


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