片袖の魚とミッドナイトスワン、そして「さて面白くなってきやがったぜ」

                              早水瑠美
はじめに
 わたしは映画『片袖の魚』と『ミッドナイトスワン』は観ました。そして、あらすじはパンフレット1)やウィキペディア2)を参照しながら思い出して書いています。もとより専門家でもなく、映画の作品を数多く観ているわけでもありません。まったく素人の感想と思ってもらえればいいかと思います。それと両作品のネタバレを含みますので、ご注意を。鑑賞された後に読まれるのをおすすめします。そして、わたしにとっての両作品を参考に自分の創作につなげられるかを考えています。文学についても、文学理論など知らない、いっかいの素人の小説書きに過ぎません。偉そうなことを書いてすみませんと最初にお断りしておきます。

片袖の魚
 あらすじを追うと、トランス女性のひかりは東京で会社員として一人暮らしで生活していて、ひかりには友人のトランス女性の千秋や上司の中山や同僚の辻といった理解者にも恵まれている。出張で故郷の街に赴くことになったひかりは高校時代の同級生のタカシに連絡をとる。ひかりはタカシに恋愛感情を抱いていたのだった。しかし、帰郷してみると二人で会うと思っていたタカシはサッカー部の同窓生に連絡を回して、男ばかりの同窓会的雰囲気で盛り上がっており、ひかりの居心地の悪さは頂点に達する。タカシは子供ができると発表するし、ひかりのことはみんなが昔のコウキという名で呼ぶ。タカシはひかりにサッカーボールを渡し、また会おうと言って別れるが、ひかりはタカシの後頭部にサッカーボールを命中させる。
 ひかりは東京に戻り、千秋に失恋を報告する。しかし、そんな過去は忘れようと、千秋と笑い合い、一人で東京の街を闊歩するひかりの姿が凛々しくみえたラストであった。
 と、これでだいたい筋を追っていると思うのですが、間違っているところもあるかもしれません、だいたいの感じです。ストーリーとは直接関連がないけれど、ひかりの会社が扱っていると思われる水槽の魚たち、タイトルにも入っていますが、魚が重要な意味を占めているようです。映画の美術的にもライトで照らされた水槽の魚たちは美しく、東京の街を一人で生き抜くひかりの姿そのものの暗示的でもあります。クマノミという魚は群れに一匹のメスしかいないのだけど、その一匹が死ぬとオスの中で大きいオスがメスに変わるというエピソードが効果的に魚とひかりをダブらせています。
 ここではトランスジェンダーは明示的、決定的に排除されることはなく、シスジェンダーのみんなは受容しているように見えます。しかし、ひかりがトイレの場所を訊いたら、だれでもトイレならあるけど、といったことや、知らない人から、手の大きさなどから、ひかりさんって男性?と訊かれたりします。こういう一見シスジェンダーの人にはわかりにくい、マイクロアグレッションを描きだすのが、監督自身もマイノリティというだけあって、上手い。そして、同窓会?のシーン、コウキって昔からそうなの、とか、昔の名前に固執し、昔の仲間であることを強調しようとするホモソーシャル。男ばかりの中でみんなから好奇の目で見られていたたまれなくなります。こういうところはトランス当事者としては実にあるあるで、観ているこちらもいたたまれない気になりました。最後にコウキの後頭部にサッカーボールを、のシーンはやった!と爽快感に浸れましたが、その一方で、わたしだったらそんなことできただろうかと考える、弱いわたしがいました。わたしなら嫌な思いをさせられても、そのまま別れてしまうんじゃないかと。そういうわたしでも強い生きていこうというラスト、同じトランスの親友と笑い合い、力強い歩容はほんとうに勇気づけられるいいラストで、女性として生きる、イシヅカユウさん演じるひかりが、美しく光り輝いて見えました。

ミッドナイトスワン
 転じて、トランスジェンダー映画として、昨年、日本アカデミー賞、作品賞を受賞し、主演の草なぎさんには主演「男優」賞!が与えられるということで脚光を浴びた作品を見てみたいと思います。
 この映画のあらすじは、故郷の広島を離れて一人で生きる凪沙はトランスジェンダーで、ニューハーフショークラブで生計を立てている。親にはカミングアウトしておらず、親戚の娘の一果が凪沙の元に預けられることとなる。一果は親から虐待されており、故郷ではできなかったバレエに興味を持つ。凪沙はそんな一果を支援するうちに、母性本能?に基づき母親になろうと、性転換手術をタイで受ける。術後の具合が悪くなり、治療もされないまま、凪沙は苦しんでいると、そこに一果が駆けつける。凪沙は自身もやりたかったバレエへの思いを一果に託して亡くなる。
 という、まあかなりはしょって、観たのも昔になるので、忘れていますが、書いてみました。ここではトランスジェンダーは一般社会では受け入れられず、会社の面接を受ける時に無理をして男装したりしていますし。性転換手術(性別適合手術SRS)で一気に性別が変わるような誤解を観た人に与えます。実際はSRSの前に徐々に女性として受け入れられるように行動を変えていくものです。明示的、決定的な排除、拒絶が行われます。凪沙の母親が豊胸した凪沙に対して、このバケモン、と叫ぶシーンに象徴されます。シスジェンダーの一般大衆に分かりやすい、シンボライズ(ステレオタイプ)と悲劇が用意されています。ラスト付近の一果への母性愛と死別のシーンなどはもはやこれはお涙頂戴のお芝居だと鼻白みました。ムカついて、でもエンドロールまではみましたが、席を立って、周りを見ると目を押さえて、立ち上がれないような人もいて、こうも一般人(シスジェンダー)と違うものかと思いました。
 しかしながら、この非劇はシスジェンダーの人にはトランス差別をなんとかしようという契機になるかもしれず、一概に否定はできないのです。それに、まず、草なぎさん演じる凪沙の女性としての演技は良かったし(少しやり過ぎのきらいはありましたが)、服部樹咲演じる一果のバレエに演技自体も良かった。俳優さんはよかったと思います。ただ、やはり、草なぎさんは主演「男優」賞ですし、本人も演技であって本意ではないようなことを言われていたようですし。トランス当事者のわたしから見ればエンパワメントされるはずがありません。むしろガッカリというのが実際のところだと思います。あ、でも当事者でももちろん一様ではないさまざまな方がいるので感銘を受ける方がいてもそれを否定するものではありません。
 いま、たまたまネットを見ると、ミッドナイトスワンの評価4.1/5で、95%の人が高く評価しました、だそうです、びっくり!。

自分の文学として書くには
 こうして、「片袖の魚」と「ミッドナイトスワン」をわたしなりに読み解いてみましたが、わたし自身が小説作品として書くのはどちらが求められるのでしょうか、というのがいまのところの悩みであります。わかりやすい悲劇、わかりやすいトランスの象徴としてニューハーフ、それに対して、わかりにくいかもしれないマイクロアグレッション、トランスとしては認められない?一般の会社員。一般のシスジェンダー読者に感銘を与えるものと、トランス当事者をエンパワメントする作品。トランス当事者としては当然後者にこそ軍配が上がるように思えます。しかしながら、わたし自身の特性として、非常にペシミストであり、悲劇こそ美、滅びの美学、死と破滅、バッドエンドこその文学と思っているところがあり、読者に強く訴えかけるものはやはり悲劇的結末を持っていないといけないと思っているのです。それともうひとつ、わたし自身が完全に女性として生きることに、いまでも自信が持てませんし、心の性別なるものも、はっきりと女性と言えるのか疑いがあります。いままでの経験もシス女性とは違いますし、女性としてなりきれるのか、どうか。だいいち、わたしには女性として会社員とか人に認められる仕事をしたことがありません。がしかし、こういったものはトランス当事者を悲観させるものであり、悪くするとトランス差別を肯定するものにもなりかねない、トランス当事者をエンパワメントする作品をこそ、当事者としては書くべきではないのかという思いがせめぎ合っていて、どう書いていいのかかなり悩ましいのです。この答えを見つけるのはやはり実際に書き出してみて、キャラクターの想いに寄り添った時に見つかるのかもしれない。しかししかし、わたしの小説の書き方として、最後のシーンが浮かんで、そこに持って行くためにストーリーを作るというクセがあり、それゆえに最後が見えないと実際に一行も書き出せないという悪いクセを持っているのです。さてどうしようか。(ここで「さて面白くなってきやがったぜ」というのがルパン三世の次元大介のセリフだそうです)

1)点から線へ トランスジェンダーの“いま“を超えて 映画「片袖の魚」より
2) https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ミッドナイトスワン

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