出産が怖いことについての不思議とグロテスクな一論考

 雑文の中でも少し触れましたが、この世界の一般の人は、出産が、命懸けであることを知らないわけはないだろう。どうしてあんな危険なことを男性は自分の愛する人に求めることができるのだろうか?結婚した女性からわたしは死ぬことを覚悟していますと承諾を得てから、子作りを始めるのだろうか、どうもそんなふうには思えない。わたしにはそんな怖いことを相手に求める神経がわからない。危険性を見ないふりしているのだろうか?
 わたしはそんな怖いことはとてもできないので、相手を妊娠させるようなことはできない。従って子どもは作れないと思っていた。
 なにかわたしがおかしいのだろうか? 世間一般の人はまったくそんな危険性を想定しないとは考えにくいのですが。なぜ、医療システム全体がもう少し出産が安全になるように変わってくれないのか? 

 女性は我慢して当たり前みたいな苦痛に耐えることで子どもを産む、それこそ命懸けでないと産んではいけないというシステムなのか?
 出産のシーンをテレビなどでみることがあるが、実に野蛮な方法で女性に痛みを強いるように感じ、まるで拷問のようで、とても、わたしは正視に耐えられない。医療システムはもう少し、安全で痛みのないような方法を取れないのか?
 最近は無痛分娩をする人も増えているようですが、高額になると聞く。無痛分娩に罪悪感を感じる人もいるという。もっとデフォルトで無痛分娩になってくれないだろうか。日本人は人権に無頓着だと思うけど、そういうことで女性だからということで、苦痛に耐えて当たり前ということになっていないのか?
 男性では出産の痛みに耐えられないと聞く。だけどそれがなぜ女性なら耐えられることになっているのか? なにかこの辺には性差別が関係しているように感じられる。

 そして、一つの仮説に、出産が命懸けでも、ものすごく野蛮な拷問のような苦しみがあっても、みんな平気で、政府も問題にしないのは、なぜかと考えていたら、グロテスクな結論にたどり着いた。
 国家としては、出産で子どもを産むことは、女性に課せられた課題で、国家に貢献する尊いことである。このことをものすごい負担と引き換えにしておいた方が、国家のために命懸けで貢献したことになるわけで、それは尊いことと神聖化できる。そしてそれは国家に忠誠を示す証のようなものであると。
 こういう国家、の意思があるのか、前にはあったのか、現在は忘れられているかもしれないが、市民の中にも浸透して、出産は命懸けで耐えられないほどの痛みと引き換えで、神聖化することは正しいと思わせているのではないだろうか。
 なにかこういう意思が働いて、出産を楽に安全にしようとする動きに反発がでる、安全で苦しみのない出産など、神聖化が薄れて、国家に対する忠誠も薄れさせるということ。という、前近代的な国家的な意思が働いているのではないだろうか?

 だとしたら、いまはそんな時代ではないので、安全で楽な出産のシステムに変えた方がいい。それは、近代的個人主義、人権主義に沿ったものになるから、少子化というのは、それは経済的問題が大きいだろうが、実はこのシステムの気味悪さを現代人は感じ取っているのではないだろうか。



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