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開巻有得〜“絶対悪”の正義と信念③〜

彼の心情を惻隠する

彼の残した悔いが何だったのかを模索するにあたって
尼僧さんからいただいたヒントは、

「辻氏には理想があったはず
 でも理想に近づいていくとき
 自分自身に無意識についてしまう嘘があった」

というものでした。

彼がなぜ東南アジアに向かったのか
本書に書かれていることを簡単に要約すると、

ホー・チ・ミンと会談して
「ベトナム戦争を止めさせる」という目的があり、
まもなく訪米予定だった池田勇人総理に
それに関する情報をお土産として持たせる計画もあった。

ということらしいです。

何度も唱えていた生きる路のひらき方

彼はよく、
「死神に体当たりをして道をあけさせる」
という心構えを説いていました。

私がもし拳銃を持ったり、短刀を持ったり、護衛をつけておったとしたら、とても突破できなかっただろうと思う。私には一つの信念がある。
裸一貫でどこへ飛び込んでも自分は決して死なぬ。神様が殺さぬ。
これが体験から出た私の考え方であり、
何時でもその信念でどこへでも飛込んでいった。
危険が来たら、それを避けずに、危険に向かって直進していく。
死神が追いかけてきたら、逃げないで、死神に体当たりする。
そうすれば、向こうがタジタジとなって、道を開けてくれる。
これが私の信念である。

『文藝春秋』1955年臨時増刊号

死中に活をもとめる路は、死に向かって全身をたたきつけることだ。
死をさけようとしたら死神に襟首をつかまれる。
死神を辟易させる捨身の体あたりだけが、生きる路をひらくであろう

『潜行三千里』1957年版

戦場に立つ前も、
戦場から離れても、
常に何かと戦っているようです。

十一面観音様の救済にご縁がありそうな生き様です。

信念を貫くために

彼の選択基準を想像すると、
「信念を貫くため」という言葉が湧いてきます。

辻さんの
時には演出と受け取られるほどの
並外れた行動力を知ると、
「信念を貫く」ことへの
強烈な気負いがあるように思えたんです。

「かくあらねば」を徹底的に実践することで、
自分が正しいことを自他に証明しようとしている
ようにも見えました。

…私自身に、
自分の尊厳を自分に証明するために、
「偉い」と思える人を師匠にしようとした
経験があるからかもしれません。⤵︎


陸幼時代に膨らませた復讐心

 彼(辻)の、高小卒という特殊な履歴は、
 辻の人格形成にあたってかなり重要な因子であるように思われる。
 彼が好んで「明治維新は足軽の手によって成就した」とか
 「ヒットラアは伍長だったことを思うべきである」
 ということを今でも口にするのは、
 早くから培われた復讐意識の現れに他ならない。[中略]
 幼年学校には中学一、二年生と高等小学校とに受験資格があったが、
 実際に高小から入ってくる生徒は稀有の例に属した
             (『中央公論』村上兵衛評 1956年5月号)

この「復讐意識」という言葉にこだわれば、辻の次男・毅が、
かつて幼年学校時代の辻についてこう慮っていた記述を
見逃すわけにはいかない。

 同期には秀才も多く、毛並みのよい子弟粒揃つぶぞろいの中で、
 山村から何も知らぬ山育ちの少年が、
 辛うじてビリで入学したのであるから、
 一年間で頭髪が白髪になったというのも頷ける。
 一挙一動嘲笑の的となりながら、歯を食いしばって、
 孤独な気持ちで頑張ったのであろう。
            (『逓信協会雑誌』1975年1月)

辻の名幼入学時の順位は、実際には半分より少し良いくらいで、
「ビリ」ではなかった。
だから「高小卒」の学歴が異端だったとしても
決して劣等生ではなかったはずだ。

辻が名幼に入った頃、文官教官から
「お前はなかなかできるが、五番以内になるのはむずかしかろう」
と言われたというエピソードは辻の評伝ではよく引かれており、
そう言われた辻が持ち前の負けん気を発揮して勉強に打ち込んだ
という話になっている。

それでも、山育ちで高小卒の学歴しかない辻は、
「毛並みのよい」同期生の間で「一挙一動嘲笑の的」となり、
入学して一年で「白髪」になったという。
村上が「早くから培われた復讐意識の現れ」として
「明治維新は足軽の…」「ヒットラアは…」といった辻の口癖を
挙げているのも、
自らの身分や出自ゆえの言動を嘲笑されたことに対する抵抗であり、
この時代の経験が、辻の「反骨」「不屈」を涵養したことを感じさせる。

辻さんは幼年学校でも、自分を律することに妥協をしなかったそうです。
「鉄のような意志の持ち主で、堅物だ」という由来から
「鉄ちゃん」とあだ名されていたようで
生徒の誰もが学校職員をあだ名で呼ぶ中、辻さんだけは呼ぼうとせず
また生徒心得にあった「部屋にある暖炉に直接あたってはならない」という規定を、最後まで遵守したのは全校で辻さんだけだったというお話です。

まさに自分を律して周囲に流されることを嫌う
辻らしい逸話となっている。
しかも、このエピソードが決して辻を茶化した調子になっていないのは、
どこか鬼気迫る辻の姿が、
周りに茶々を入れる余地さえ与えなかった
からだろう。
2期下の堀場庫三は、入校当時に目にした辻の印象をこう振り返っている。

 辻さんは精神的にも体力的にも傑出しておられ、
 如何なることにも精力的な活動ぶりを発揮しておられ、
 また無類の努力家で、それこそ元気の固まりのような人であった。

78頁 堅物すぎる「鉄ちゃん」

このエピソードを知った時、
ソ連との戦いを前にした辻さんの信念と繋がった感覚がしました。

「寄らば斬るぞ」の侵すべからざる威厳を備えることが、
結果において北辺の静謐を保持し得るものである

『ノモンハン秘史』

彼はそれまでずっと、
周囲に潜んでいる「敵」につけ入る隙を与えないよう
自分を厳しく律し、威厳を備えることで
「茶々入れ」や「嘲笑」を
黙らせてきたんじゃないかと思いました。

国同士の戦争においても、
彼個人がそれまでに実践してきた「敵を黙らせる」戦法を
確信を持って推し進めていた印象があります。

「これからの俺の行動は人生の付録である」

戦後に政界に足を踏み入れた際、
応援に来た人々に対して
「君たちの応援は誠に有り難いが
 家業や勤務を休んでの支援は止めてほしい」
とお願いしたそうです。
そして、これからの自分のすることは人生の付録だと続けた。

追放が自然消滅になって重荷がおりたわけなんだが、
その喜びというよりは、非常な寂しさを感じるんです。
要するにですな、圧迫と緊張の中にある自分こそが本当の自分だ
ということなんでして、つきつめるともっとも正しい私というものは
戦場にあるわけなんですよ

いわば今日の私は沢庵石を取り去った漬物で、
こりゃアもうボケたもンです。
圧迫と緊張の中にあってこそ、ほんとの人間が出来上がるということを
痛感しますな

1952年5月4日付讀賣新聞朝刊掲載のインタビュー

私が「自分を甘やかす」と決めて色々とやっていた時期に、
たまに鎌首をもたげた葛藤が
この“今の自分は腑抜けている”という自責の念だったのですが
辻さんの「今日の私は沢庵石を取り去った漬物」と似ていると思います。

それまで、修行僧みたいな生活を維持することで
「研ぎ澄まされている」感覚があったのに、
便利さや情報の雑駁さに
踊らされていると感じることがあったり、
おなか周りの肉が気になり出したりするんです。

生涯をかけて「信念」のために自分を追い込み、
「正しさ」を自負にしていた辻さんにとって
この違和感がどれほどのものかを考えると
自身の足下が瓦解するような感覚があったんじゃないでしょうか。
…思い出しネガティブに入ります。

辻がわずかだが過ごした日本の1960年代は、
辻にとって「平凡な時代」だった。
名古屋陸軍地方幼年学校の入学を起点にすると、
終戦までの28年間は軍人であり続けた。
さらに、その後の潜行生活も合わせると、
極端に「圧迫と緊張」を強いられた状態が
30年以上常態化していた
ことになる。
人生の大半を、“戦時体制”の中で過ごしたのだ。

迫る肉体としての老残に、
兄の弘や、兄と慕った服部が亡くなった59歳という年齢への
時間の少なさに焦りが相まって、平凡さを疎み、
再び緊張状態へと舞い戻っていったのではないか。

323〜324頁 人生の付録

 私は一種の運命論者だ。
 生まれるときに自分の力で生まれたものではないとしたら、
 死ぬのもまた自分ではどうすることもできない。
 端的に言えば、生も、死も、大きな運命に支配されているということだ。

 私の過去を見て、
 辻は生命知らずだ、勇敢だとほめる人がたまにはあるが、
 それは皮相の見方だ。
 死なぬと思っていても弾丸がくると恐いものだ。
 恐いから私は戦場では冷静によく勉強する。
 一つの石にも、一本の木にも、
 弾丸が来たらそれをどのように利用するかに
 十二分の気を配りながら行動する。
 その研究と対策があってはじめて、大胆そうに弾丸の中を潜れるものだ。
 それを知らずに私の真似をして、大胆そうにやるものはすぐに撃たれる。
 戦場で弾丸を受けると怖いのが当たり前であり、
 その怖い中を任務に従って行動するには、勉強することだ。
 そして死ぬまでは、絶対に死なないと思っているに限る。
                   (『ズバリ直言』)
辻は独断専行だったが、無鉄砲ではなかった。
事前に緻密に調査をした上で行動していた。
辻の死生観に変化を認めることができるのは、
人生観をテーマにした対談を締めくくる辻の次の言葉だ。

六十に近くなって、始めて感ずることは、
 時が大切だ
ということである。
 一時間、一時間がローソクのもえて減るような気がするが、
 こんな気持は、二十代や三十代の時は少しもなかったのに。
 とすると、余り長生きしないのかも知れない。
時間をムダにすることは生命を浪費するような気がしてならぬ
 残り少いから起る本能でもあろうか。

320〜322頁 死生観

一つ、気になるエピソードがあります。
それが、最晩年の東南アジア潜行中の辻さんの選択です。

300頁 水先案内人「赤坂ロップ」

それまでの万事徹底ぶりから、
このエピソードだけが浮いていると思いました。
辻さん自身、これまでを振り返って
「一つの石にも、一本の木にも、弾丸が来たらそれをどのように利用するかに十二分の気を配りながら行動する。その研究と対策があってはじめて、大胆そうに弾丸の中を潜れるものだ。」ということを言っていたのに、
なぜここに来て変装に中途半端な妥協をしたのか。
眉を剃ることは、何か特別な意味があったのか。
少し気になっています。

話は飛びますが

辻さんの言動を読んでいると、
「あまり秘匿しようとしない人だな」
という印象を持ちます。

私自身これまでに、人から何かを聞かれて、迂闊に
個人的なことを喋ってしまったことを後悔したりしました。
警戒しているのに聞かれると答えてしまうのは、
「自分にやましいことがないことを証明しなくては」
という渡世の戒めみたいなところがあるのかもしれない
と思い当たったことを想起しました。

…自分ごととして投影しすぎですかね。

彼の話をしましょう。

「死んだ部下が私を呼ぶのです」

辻さん自身が率先して申し出た「東南アジア視察」ではありますが
単なる仕事のためだけではなく、
「死場所を求めて」という面もあるのではないか
と言われています。

辻が潜伏期間中、世話になった東京・湯島にある
画廊「羽黒洞」の経営者、木村東介に
フリーライターの橋本哲男氏がインタビューを行っている。

 昭和三十六年三月、辻さんはラオスに行く直前、
 私に会いたいと言ってきました。
 私が会うと、こんなことを話したのです。
 「木村さん、いままで誰にも言わなかったが、
  私は死場所を探しているのです。
  夜寝ていると、死んだ部下が、夢枕に立って、早く来てください、
  早く来て下さい、と私を呼ぶのです」
 と。彼はベトナム戦争を辞めさせるためにホー・チ・ミン大統領に
 会いに行ったことになっていますが、それは形の上で、
 本当は死場所を探しに行ったのだと思います。
 辻さんは死者の霊魂に迎えられて、東南アジアに行ったのですよ。
           (橋本哲男『辻政信と七人の僧侶』)

この証言は、辻が池田のために東南アジアに行き、
ホー・チ・ミンにベトナム戦争阻止の約束を取り付けようとしていたことと必ずしも矛盾しない。千歳に対しても、
辻は出発前に旅の理由を「東南アジアで戦没した将兵の回向、公務、視察」
と伝えているわけだからだ。たとえ、そこで命を落としたとしても、
家族のもとに送られた「辻レポート」があれば、
任務を遂行したことになる。

314頁 池田のための視察

辻さんのお墓は、日本を発つ前に本人が伝えていた希望を
家族が汲み、「四條畷しじょうなわての戦場が一望できる場所」にあるんだそうです。

四條畷の戦場は、南北朝時代に
室町幕府軍と南朝方の楠木正成くすのきまさしげ正行まさつら親子が戦い、正行が討死した場所。
辻氏は正成よりも正行を好んだ。
理由は、
はじめから負け戦とわかっていてもやる。
 やらざるを得ないからやるんだ

というところがあるからだという。

断片読書メモ

負け戦だろうがなんだろうが、
やらざるを得ないからやる。
東南アジアを潜行する中でも、
そういう場面はあったのでしょうか。

辻さんの人物像を膨らませるのに、
本書には大変お世話になりました。

責務を果たすために帰るつもりではいても、
自らの死を予期しているようにも見えた辻さん。
「彼は何を悔いているのか」。

ここからは、自分なりに探っていくことになりそうです。

2024年2月8日 拝


知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。