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心照古教〜『大学』を考える〜【むすび】

『大学』に心を照らして読み解いてみた結果

今回どういう視点で読み解いたか

元々、『大学』の素読は
自分の至らなさが嫌で、
「こういう古典を読めば、大したやつになれる」
という期待のもとに始めました。
二十歳はたちを過ぎてからのことです。

師匠や推しを「私の目指す理想」に設定して
彼らの言っていることを「血肉にしよう」と、
そらんじられるまで書き写す」ことを試みたりしていました。
(いまじゃすっかり抜け落ちていますが…)
それが、理想の「型」に自分を無理くり押さえ込もうとする
行為だと気づいたのが、大体十年くらい経った後です。

ほぼ、ついさっきです。
(1年くらい前からちょっとずつ腑に落ち始めました)

自分には自分の人生があって、それまでの生き方があって、
「何を感じているのか」「どうしたいのか」が
ほんとうに“私が”生きるための道標みちしるべになる。

「本に書かれた『正しい』をなぞっていれば安泰だ」
と、深く考えず「正しい」型に拘泥するのは
ただの横着おうちゃくだ、と気づいてから
それまで後生大事に抱えていた
「師匠本」をどう扱っていいか迷う日が続きました。

それを読むとどうしても
本の通りにできているか、という
「答え合わせ」をしたくなるからです。
そして、何も知らない頃に膨らませた
「理想」イメージの答え通りには「できてない」と
断言できるからです(笑)

ただ、だからと言って
「これから私は私の思うようにやるんだ!」
と、わがまま気ままに暴れ回るようなことはしたくない。
…極端かもしれませんが。

それで、「この人生」の方を主軸にして、
この「師匠本」を読めないかと試みた次第です。

本の読み方にも二通りあって、
一つは「そうかそうか」と本から始終受ける読み方です。
これは、「読む」のではなく「読まれる」のです。
書物が主体で、自分が受け身になっている。
上品に古典的に言うと「古教照心」の部類に属する。
しかしこれだけではまだ受け身で、自分というものの力がない。
そういう疑問に逢着して、
自分が主になって、今まで読んだものを再び読んでみる。
今度は自分のほうが本を読むのです。
自分が主体になって、自分の心が書物の方を照らしてゆく。

安岡正篤『人物を創る 人間学講話「大学」「小学」』

これを、「心照古教しんしょうこきょう」と言うんですって。

今回、それをしようと試みました。
ズレているかもしれませんが、
ここしばらくの転換期を言語化するいい機会になりました。

私が大事にしたいこと

大学の道は、明徳を明らかにするにあり。

「大学」

今の私は、「明徳発輝めいとくはっき」を心願しんがんに据えています。

自分自身を純一に保ち、
表面上の評判や、権威や、物質的な豊かさにとらわれず
「これが私の進む道だ」というものを究尽きゅうじんする
みこと」で在りたい。

起こる出来事を勝手にジャッジして、
思う通りでない自分を庇うための「言い訳」に囚われ、
いま現在の状態を直視しようとしないでいると
一人ひとりに生来与えられている徳は「煩悩の雲」に隠れてしまう。

だから、誰かがどうだとか、
そんなことに構っている場合じゃない。

自分の受け持ちの外にあることに
貴重な人生を浪費している場合ではない。

ひとりを慎んで、自分の在り様を直視して、
宇宙の一部である自分に蔵された
徳(宇宙のはたらき)を世に明らかにしていかないと、
世の中は良くならない。

なぜなら、自分が、世の中を構成している一部なのだから。

一隅を照らすもので 私はありたい。
私の受け持つ一隅が
どんなに小さい みじめな はかないものであっても
悪びれず ひるまず
いつもほのかに 照らして行きたい

詩 田中良雄

今回、身に迫ったことば

日々を新たに、また日に新たに

「大学」

この2年のあいだ、
私の中では「我ながら頑張った過去」の自分像と、
「生まれたてのひよっこ」な今の自分との
葛藤がよく起こっていました。

平たく言えば、過去にしがみついていたんですよね。

細かいところを思い出せば、
情けない思いをすることの方が多かったのですが
そこは思い出用の
「最高に盛れるメイクアップフィルター」がかかっているので
しっかり美化されていたんです。
これもまた「煩悩の雲」だと思います。

これに浸っているときは気持ちいいんですよ、
だから中々抜け出せなかった。

でも、いまの自分はもう、ちがう自分なんです。

毎朝、起きた時には、昨日の自分はもういない。
だから今日1日を悔いのないように生きたい。
寝る頃には「わたしよくやった」と言って布団に就きたい。

へきすればすなわち天下のりくと為る。

「大学」

「好き嫌いや不安や恐れによって、大いに
 ものの見方、ひいては判断が偏る」
これが「へき」だと解釈します。

好き嫌いも不安も恐れも、
特定の「ありのままの事象」への拒絶﹅﹅なんじゃないでしょうか。
この状態の時は、
目の前に繰り広げられている人間ドラマのイベントに、
一参加者として没入できて、暇はしないんだと思います。

小人しょうじん閑居かんきょして不善ふぜんを為す

「大学」

というのは、案外こういうことかもしれません。

人格修養をする機会を免れた人は、
暇をすると、
時間を潰すためにトラブルを創りだしてそれに没頭しようとする。

でも、自分の偏りを自覚していないと
いつだって加害者にもなり得る。

生きていれば必ず誰かに影響を及ぼします。
誰かに影響を及ぼす立場にある以上、
少なくとも「自分にも偏りがある」ということを自覚しておかないと
誰かの領分を侵害しかねない。

もし人格のないものが無暗に個性を発展しようとすると、ひとを妨害する
権力を用いようとすると、濫用に流れる、
金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。
随分危険な現象を呈するに至るのです。

夏目漱石『私の個人主義』

いまの私で『大学』を読み解くと、こんな感じになります。
また経験を積んで、新しいものの見方ができるようになったら、
そのときの心を照らした『大学』の読解をしたいです。

参考文献

伊與田 覺『「読本仮名大学」「大学」を素読する』


伊與田 覺『「大学」を味読する 己を修め人を治める道』


安岡正篤『人物を創る 人間学講話「大学」「小学」』

知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。