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心機一転〜負の循環を断つ〜【一】

1月27日から、1月29日まで少しばかり遠出をしておりました。
おうかがいしたのは京都と和歌山。

ここ2年のうちに繋がったご縁で
これまでにも度々おうかがいしてきていたため、
もうGoogleマップに頼らずとも
なんとなくの土地勘で目的地に辿り着けるようになっています。

この三日は、私の人生の転換機なのではないかという
気がしています。

私の理想

私が理想としている在り方を、
師匠の言葉を借りて言うと、「みこと」と言います。

我々の人格というものは、
地位とか、財産とか、名誉とかによって存在する
非常に相対的、末梢的な存在であるが、
人物が出来てくるほど、そういう相対的な支配を受けずに
次第に絶対的になるわけであります。
世俗的ななにものを奪っても、
なおかつ毅然として存するところがある。
西郷南州のいわゆる
「名誉もいらぬ金もいらぬ、始末に困る人間」(山岡鉄舟を評したことば)
でないと駄目であります。
なんと非難されようが迫害されようが、少しも動揺しない絶対者、
神道ではこれを「みこと」という。
そういう人が尊いから、尊という字をみこと﹅﹅﹅と読む。

安岡正篤『人物を創る 人間学講話「大学」「小学」』

これは、
相対的な比較の上で成り立っている競争社会での
「自分が優位にたつ布陣を敷くための算段」を
「自分がやりたいこと」と錯覚して、
社会から用意された目標の達成を
モチベーションにして生きることから
隔絶した在り方だと思っています。

私には、人を蹴落とす愉しさがどうもピンときません。
それよりも、隣にいる人を警戒しなくていい環境の方が
安心していられて心地いいと思っています。

できることなら自分のことはあけっぴろげでいたい。
でも、
そこから見える間取りをもとに攻略方法を練られるなんて不愉快です。
…私にそういう警戒心がある、というお話ですね。

私は今まで、こういう警戒心をなだめるための保険に
「お給料は我慢料」の世界で
息を殺して生きていたんだと思います。

2年前に方向転換をした時、
直近で起きた出来事への警戒心に呑まれて
「お金がなくて生きていけるのか」という次元の危機感より、
「ここにいて生きていけるのか」という切迫感が優ったことで
生活費についての対策が二の次になっていました。

ただ、少なくとも2年間、
未知の世界を彷徨い歩けるくらいには
「貯金」という砦があったんです。

突き動かされるままに
その貯金を元手に動き回ったおかげで
自分が生きたいと思える世界への道筋が
見えはじめてもいました。

そう在りたいと思う人たちとの出会いで、
自分の理想が具体化していったんです。

働くことがそのまま遊びなんです。
人のためにすることがそのまま遊びなんです。
苦しい目にあうこともまた、そのまま遊びなんです。

山田無文老師

「遊ぶように仕事がしたい」というのは
身のうちから突き動かされる感覚を追求していくうちに
周りのためにもなっていく軌道にのっている状態
を想像しています。

歴史上の偉人の多くは、
これを経験していたんじゃないかと思っています。

身体のうちの宇宙(神性)とつながっている状態で、
宇宙のはたらき(徳)に突き動かされて動いていると
その力が発揮されるための流れが起こってくる。
必要なものが、必要なタイミングで、
人生の旅の途中に現れてくるんだと思います。

私も、かく在りたいと長く願ってきていました。

それでも、なぜだか
「いつかの備えのために納得できない状況を呑み込んでいる」
といった打算的な感覚から、ずっと抜け出せずにいたんです。

そして、繰り返されてきた負のループの入り口の部分に、
この3日間で気づくことができました。


→「なりたい姿」を現実化するために、
狎れている方法を選ぼうとする



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