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妥協を重ねた先にあるもの

公開を先延ばしにして年を越していた記事を見つけました。
結局何を言いたいのか、よくわからない代物かもしれません。
自分の価値観のアク抜きのための懺悔
みたいな記事です。

不遇感ルサンチマンはどこからくるのか


私の話をします。

「自分を置き去りにする」が起きるとき

私は幼少期、
”家族の中に敵がいる”みたいな環境で育ったもので
結構長い間「これは良い、これはアカン」みたいな
キッパリとした価値観を持って生きていました。

常に「良しとされている状態」を目指していて、
それができないことで自分を責めることはあれど、
「悪いこと」は、
それ自体「はあ?思ってもみんわ。」
という意識で過ごしていたと思います。

ぎりぎりアウトかセーフかのラインで
悩んでいる時点でアウトだろ、
みたいな、硬めの頭を持っていました。

…おそらく悪童の振る舞いをすると、
ただちに矯正が入っていたんだと思います。

小学生の時、
HRで先生が話し出したのに構わず
友人と喋っていたら
悪童と思っていた男子から注意を受けてショックを受けた
という記憶が、いま蘇りました。

…話の腰を自分で折ってしまいましたが、
そんな私が価値基準の
第一に据えていたことは、
「見苦しくない大人でありたい」でした。

なので、そうあるために

「自分の意見をゴリ押しすることはしたくない。
 それは厚かましいことだ」

「私は意見を言えるほど(その物事について)知らないので
 まず知るために動く必要がある」

というようなことを考えていました。

その延長で、

「批評家なんかクソくらえ」
「偉そうに机上の空論並べるくらいなら体を動かせ」
「当事者意識のない批判は人を不愉快にさせるだけ」

という思考回路になっていたと思います。
「消費者意識を持つことは”悪”」みたいな感じです。

この調子で

「自分はこれから経験を積んで、
 何にでも対応できるようになりたいから、
 今は周囲に方針を委ねて、それに従って行動する」

という感覚を元に行動を選ぶようになりました。

「その方が周囲の意向も汲めて、誰も困らない」
と思ったからです。

当時の私は
最良の選択をする努力をしている
と思っていたし、
社会の中にいる以上、
その選択を選ぶことについて
「それでよかった」と思っています。

とはいえ問題もありました。
それは
「自分の生理的な欲求」とか、
「本当はどうしたいか」とか、
根本的な部分を蔑ろにしていたことです。

「自分の都合を二の次にして周囲の意向を汲む」
のを繰り返していると
「私のほんとうの気持ち」というものを
だいぶ後方に引き離して走っているような状態なので、
「ほんとうの気持ち」が追いついてくるのに
それなりの時間を要します。

社会集団の中では、
「自分が本当はどうしたいかわからないから待っていて」
とは言えません。

…言うと次に来るであろう
刺々とげとげしい空気感”が苦痛だからです。
なのでとにかく前に進むスタンスで、走り続けます。

こうして
「自分は置き去りにされたまま」
の状態が出来上がります。

境界線が曖昧だと起こること

次に、
情報収集のために「周囲にアンテナを張る」
と言うことをやっているうちに
周囲の要望を叶えることが目的になっている状態
に陥りました。

その環境を良くするために
自分の役割を持ちたい
そのためになんでもできるようになりたい

と言うのが私の意識上の望みだったので、
周囲から頼まれごとがあるのは、
喜ばしいことだったんです。

でも、ここで
「ほんとうの気持ち(物事に対する快不快の反応)」
を置き去りにしっぱなしだったこと
のツケがまわってきました。

本当にノーと言いたい時にイエスと言ってしまうと、
私たちはストレスを感じるようになります。
それはとてもエネルギーを消耗させます。
最初は大したことはないと思っても、
いつの間にか怒りが湧いてきたり、
利用された気分になったりします。
実はノーと言って明確な境界線を引くことは
愛情深い行為なのです。

YouTubeで流れてきたメッセージ

このメッセージに反応したのは、
私がこの、
「見苦しくない大人である」ための努力を重ねた結果、
周りから「利用されている」怒りで
どうにかなりそうになったからです。

「もう利用されたくない」と言う強い思いが
物事に挑戦する時に
足踏みする理由になっている
と感じる場面に遭遇することも出てきました。

「選んだのは自分」という事実

振り返れば、選択の場はあったと思います。

その場で、
「相手が一番困らなさそうな選択をする」
ことが最良だと考えて、
「自分の気持ち」を二の次にしてきたのは私なんです。

選ぶ場面では
それを我慢とは思っていませんでしたが、
自覚のない領域で
自分が無理をしている状態だったらしく、
次第に「一方的に搾取されている」感覚にむしばまれ始めました。

ちなみに、こういう不足感って
周りの誰かに伝えようという気にもならないんですよね。

聞かされた側からすれば、
「選んだのはあんたでしょ、
 私のせいだって言いたいの」
ってなる気がして。

相手に不愉快な思いをさせるだけで、
私のこの得体の知れない
不足感は解消されない。

言ったところで何にもならないし、
むしろ状況が悪化するなら、
言わない方がいい。

そうして内側に溜まる澱のような
あての定まらない敵意を
「無いこと」にしてやり過ごす。

結果として、
溢れてくる激情を持て余して苦しむようになりました。
(その間、人と距離を置いたおかげで
 醜態を晒すことは避けられたと信じています。)


2023年8月25日 拝「成仏せえよ。」


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