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兵庫県の布・・「丹波布」はジーンズのように

ジーンズが馴染んでくるように
たくさん袖を通して柔らい手触りにしたい。

丹波布の着物。
どんどん日常に着ようと思います。


丹波布のことを初めて知ったのは、この本(白洲正子『きものの美』光文社知恵の森文庫)でですが、1962年当時の30年前に一度途絶えたものが復活した経緯のことや、途絶えた理由への考えが書かれていました。

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丹波布は、ごっついです。

最初に袖を通した時の印象は、おろしたてのジーンズの風合いと似ていました。ごわごわした中に体を入れていく感じ。

この頃は、最初からダメージを受けたかのように手が施されているジーンズや柔らかい風合いのデニム素材も多くなったのですが、そんなジーンズがまだなかった頃の10代の頃の記憶です。

丹波布に触れてみて「これは、着物よりも帯の方がいいかもしれない」とも思いました。でも「長年、丹波布を着続けた方のその着物がとても素敵で。。」とお店の方にお聞きして、「きっと、そうに違いない」と思ったのです。

60年前に執筆されたこの本の中で、
白洲正子は

現代人は、せっかちだ。その上贅沢でもある。

と言っています。つまり、現代人の欲望は「長年着続けて得られる風合いを、今すぐ欲しい」ということなのです。

最近になって「着物を普段に着よう」と、実行し出しましたので、もしかしたら「長年着続けた風合い」を手に入れられるかもしれません。

ちょうどいいことに、丹波布は木綿の織物で、紬の糸なので、ほこほこしてとても暖かいし、木綿なので、じゃぶじゃぶ洗えるかもしれない。冬の普段着物にぴったりなんですね。

これからいっぱい着よう。
60歳前にいい感じになるといいなぁ。
白洲正子が書いていたような、「洗いざらしの美しさ、生活して来たものの
いうにいわれぬ味」だというところまで。

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そして丹波布は、なんと言っても兵庫県の布ですので、それも嬉しいこと。

織られているのは、加古川の源流がある青垣(あおがき)町という地。この集落に加古川の上流にあたる佐治川が流れていますので、丹波布は明治時代には「佐治木綿」と呼ばれていました。

青垣町は今は丹波市となっていますが、もともと氷上(ひかみ)郡青垣町でした。ここは丹波の西の端で、同時に中国山地の東の端に位置します。

青垣という名は、出雲の安来(やすぎ)あたりから移り住んだ人が多かったからという説もあって興味深いです。島根県の安来市には母里(もり)という集落があり、そこに青垣神社が鎮座しています。

郡家の東南三十九里百九十歩なり。所造天下大神大穴持命、越の八口を平け賜ひて還り坐しし時、長江山に来坐して詔りたまひしく、「我が造り坐して 命く国は、皇御孫命、平世と知らせと依さし奉り、但、八雲立つ出雲国は、我が静まり坐さむ国と、青垣山廻らし賜ひて、玉と珍で直し賜ひて、守りまさむ」と詔りたまひき。故、文理と云ふ。神亀三年に、字を母理(もり)と改む。『出雲風土記』

また、兵庫県の加古川の流域は江戸時代中頃から綿花作りが盛んな土地で、瀬戸内海への河口の右岸は印南(いなみ)、左岸は加古(かこ)と呼ばれていました。加古も印南も古事記に登場する地名で、印南の名を持つ「針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)」は日本武尊(やまとたけるのみこと)の母にあたります。


青垣は、福知山を経て丹後の宮津にも通じていて、丹後ちりめんで知られる絹織物の産地である宮津へ向けて生糸の生産(養蚕)もおこなっていました。
品質の良い繭(節がなくまっすぐな繭糸がとれる繭)は宮津へ出荷されましたが、手元に残った屑繭(節があって、こんがらがっている繭)から紬糸をひいて、木綿の織物の緯糸に一筋二筋の絹のつまみ糸をいれていくという「丹波布」の特徴が生まれました。

『丹波布』
畑で栽培した棉(木綿)を撚り、手で糸を紬ぎ、藍、栗の実の皮、ヤシャブシ、山楊(やまもも)、こぶな草、榛(はしばみ)の木などの身近な草木で染め、手織りで仕上げられ、絹のつまみ糸を緯糸に入れるのが特徴です。


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兵庫県は日本海と瀬戸内海を持つ県です。青垣の丹波布は瀬戸内の木綿と日本海の絹が合わさった布なのです。


そして、丹波布の着物には真田紐の帯締め。
京都の寺町通り六角にある伊藤組紐店の組紐です。
京都へ行く度に少しずつ集めてきたのが活躍できて嬉しいです。

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