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私は障害児であるハルのことをよく知っているけど、ハルじゃない障害児のことはよく知らない

みなさん、どうも。こちらの世界ではお久しぶりです。
久々にいろいろな肩書や役割を取っ払って、ただの心の露出狂として、キーボードを叩いています。

最近は、わかりやすい文章の書き方とか、タイトルの付け方とか、SEOとかいろんな話があって。そのどれも大事な話だと頭ではわかるんだけど、あんまりワクワクしなくて、そうこうしているうちに、文章の書き方がよくわからなくなってしまいました。

構成を考えて書くとか、目的や対象を明確に絞って書くとか、ライターを生業としている人だったら当たり前かもしれないことなんだけど、そうやって書いたことって今までの自分を振り返るとほとんど無くて。だからこそ学びがいがあるといえばそれまでなんだけど、それを学んだ先に何があるかといったら、誤解を恐れずに言えば、おいしく消費できる文章の量産なのではないかと思ったりもする。

私はおいしく消費できる文章を書きたいんだっけ。

おいしく消費できる文章「も」書けることは大事なんだろうと考えてみるけれど、一度違和感を感じたら、何がなんだかわからなくて、まるで書けなくなってしまった。いやもちろん、書けるのよ。書けと言われれば書けるんです。物語でもエッセイでも単調な説明文でもそれなりに書けるんですけど、でも、書けないんです。自分の魂が載った文章が、書けてないんです。それがどうにもつらい。

なので、一回何もかも忘れて、ただ無心にキーボードを打ってみよう、そう思って今画面に向かっています。こうやって無心に文章を書くのは本当に久しぶりですが、何卒お付き合いください。

無心で書こうとするとどうしようもなく浮かんでくるのは、いつだって家族のことだということを改めて噛み締めながら。


2020年の秋、当時家族で住んでいたインド・デリーでの生活にピリオドを打った。同年2月に始まったコロナ対策のロックダウン生活に見切りをつけ、4人のこどものうち3人と私は日本で生活を立ち上げ、生まれつき重度の障害がある第三子ハルは、夫とともにデリーに残留することを決めた。その後2021年4月から夫の転勤に伴ってハルと夫はフィリピン・マニラに移住。

2021年の年始からおよそ1年半に及び2拠点生活を送ってきて、私はあることに気がついてしまった。

脱衣所のすみっこで愛を叫ぶ

「だってハルが生きていくための何かを考えないと!」
狭い脱衣所で、夜20:00過ぎ、私の声は思いがけずうわずった。
半年以上ぶりに帰国したハルは、日本の湯船に浸かって至福の表情をしている。私は脱衣所で湯上がりのハルを受け取る準備をしながら、ハルを抱いて一緒に湯船に浸かる夫にに向かって、声にならない声で叫んでいた。

自分のうわずった声を聞いて、自分が想像以上に切羽詰まっていたことに初めて気がついた。そう、私は、切羽詰まっていたのだ。

私達家族がこのまま2拠点生活を続けるかどうか、日本かマニラのどちらかに身を寄せるか、ずいぶん長いこと悩んできたが、家族の行く先は全然決まらない。夫のキャリアや職場環境、日本にいる子供たちの教育、ハルの医療と教育、私の生き方、この秋着工予定のバリアフリーの家、家族のあり方など、様々な要因が絡み合い過ぎていて、実に判断が難しいのだ。当たり前だけど私達家族は6人分の人生を背負って生きている。家族の数だけ決断がある。

ハルを含めた子供4人を日本で私が一人で見るのはなかなかハードルが高いし、夫はそもそも家族と離れて仕事のために単身赴任をすることには消極的だ。今はとても素晴らしいお手伝いさんに恵まれて、ハルもマニラでの生活を結構楽しんでもいる。とはいえマニラではハルが通える学校も見つかっておらず(日本以上に肢体不自由含む重複障害児の教育環境は整っていなかったのはインドもフィリピンも同じ)、安心してかかれる医療や薬の確保にも難ありだ。

余談だが、薬を希望通り粉にして飲みやすく分包してくれる技術って、もしかすると日本だけなのかもしれない。インドでも毎回コーヒーミルで粉砕してはグラム計算して紙に包んで保管していたが、1ヶ月もすれば湿気を吸ってしけってしまう。

帰国すれば教育も医療も受け皿は何かしらある素晴らしき日本。障害児をとりまく制度は、こちらから積極的に聞かなければわからない煩雑さと手続きのめんどくささにまみれてはいるが、それでも何かしらの制度があるというのはありがたいこと。とはいえ日本の制度から離れているからこそ自由に生きられている部分も否めない。何がいいのか、正解はない。

いずれにしても、ハルが社会の一員として生きていけることを、私は心から望んでいる。しゃべれない、歩けない、一人で食べられない、目が見えないハルが、それでも社会の中で人として当たり前の関わり合いを持ちながら、できれば役割を持って生きていけるようにしなければならない。いつしかそれは、私の中で強い使命感のようになっていた。

ハルが当面どこで生きていくことになるかはわからないけれど、それでもおそらく、ゆくゆくは日本に落ち着くのだろうとうっすらと受け止めている。(そのためのマイホーム!)そのときに、地域や社会の中で彼女の存在が受け入れられていてほしい。そしてできれば、ハルにも何か仕事を持って生きてほしいと結構真面目に考えている。役割としての仕事がないと、社会とフラットにつながれない気がするし、仕事ができれば、私達夫婦が死んだ後でも彼女は生きていけるかもしれない。(障害児の親あるある、親の死後問題)

だから一刻も早く、彼女が社会の中で生きていくための仕組みやタネを見つけてあげることが、親としてできることではないか。そんな使命感と、離れて暮らす寂しさがないまぜになって、漠然と「何かをしなければ!」という焦りが私の中に生まれていた。

チャイ屋さんとかカレー屋さんとか本屋さんとか図書館とかいろいろ考えてきたけれど、揺れが好きなハルが車椅子ごと乗車できる大きな車に、近所の人も乗せて駅や主要スポットに運んであげる「はるるんバス」はどうだろう。私も介護の孤独から解消されるし、揺れが好きなハルはご機嫌で自然と近所の人と交流ができるのがよいではないか。

ハルの入浴介助をしながら夫に提案すると、慎重な夫からは矢継ぎ早に質問攻めにされた。

そんなうまくいくかなあ。陸運局の許可とらないとでしょ?
大型免許とかとれるの?おっきい車運転できる?
運行時間に縛られたらハルのケアはもっと大変だよ。
時間が遅れたりしたらどうするの?

無理なんじゃないかという前提に立った質問の数々を受けて、私は脱衣所の隅っこで叫んだのだ。

「だってハルが生きていくための何かを考えないと!」

そうなのだ。実際のところ、バスだろうがカレー屋だろうが、本屋だろうがなんだっていい。ハルが生きていくために社会とつながる仕事ができるなら。ほしかったのは、「持続可能なハルの役割をみつける」という考えへの賛同だった。

「できないかもしれない」というと、やらない理由になるけれど、「できるかもしれない」といえば、やる理由になる。私たち家族はいつも、「できるかもしれない」を携えて前に進んできたし、今回だって例外ではない。夫婦で「できるかもしれない」を携えたい。

ハルがちゃんと社会の一部として生きていける道を、みつけたい。
早く見つけたい。私の命も無限じゃないから。

そう、私は焦っていたのだ。
2拠点生活は、私が”お金を稼ぐ仕事”をするチャンスとばかり考えていたけれども、心の奥底では、本来向き合わなくてはいけないこの問題を据え置きにしている自分に、すごく焦っていた。

そして、自分が思っている以上に、私はたぶん、腹の底からハルを愛していた。

ちゃんと時期がきて歯が抜けた、7歳の歯抜けハル

投げ出したいのに投げ出したくないハルのケア

7月中旬に一時帰国したハルは、1ヶ月の滞在中病院に5回行き、川に3回行った。ちなみに5回の病院の内訳は、①リハビリ外来 ②装具外来 ③PTさんの訓練と指導 ④車椅子調整 ⑤服薬調整 だ。普通の人が普通に生きていたらなかなか必要にならない受診理由ばかりではなかろうか。

ハルと夫は今年の正月にも帰国していたし、その前は去年の夏にも帰国していたけれど、前回も前々回も、私は病院の受診に付き添っていなかった。2拠点生活を機に始めた自分の仕事が忙しかったというのもあるし、今は夫がハルの主担当だから良いだろう、という気持ちもあった。

3月に長期休暇をとってマニラに遊びに行ったときは、逆に夫の仕事が忙しく、私は結局毎日の子供たちの世話に手一杯で、ハルの病院開拓や学校開拓に動くことはできなかった。そして、マニラに滞在した2週間の最後、ハルのケアを巡って夫婦で大喧嘩をした。

気が付かないところで、少しずつ少しずつ、私は「ハルの母親」として果たせる役割が剥ぎ取られていっている感覚を覚えていたし、それは日本で私と暮らす3人の子供にとっての「父親としての夫」も同じだったのかもしれない。

だからこの夏は、できる限り家族で過ごそうと思っていた。夫もリモートワークはせず、完全なお休みを取得してくれた。5回の通院のうち4回は私も仕事を休んで付き添い、ハルの現在地を夫と一緒に確かめようと努力した。子どもたちと約束していた休暇にはみんなで一緒に川にいき、美味しいものを食べ、ボードゲームをやって、離れている間に少しずつズレていた感覚をチューニングするように、家族6人で過ごす時間をしっかりとった。

この間、私は仕事をしょっちゅう休んだし、スケジュール通りにうまく進まなかった案件を同僚に尻拭いしてもらったりもしたし、会社としてはまったく迷惑な話だったに違いない。

でも、ちゃんとハルと過ごしたのは、なんだか久しぶりだった。

ハルの反りは強くなり、ほとんど一人ではじっとしていられなくなっていた。起きている間は緊張が強くて足首は変形し、放っておくと両足がクロスしてしまい、まっすぐに揃えることができない。拘縮予防の足の体操をしながら、ハルの足首が一緒にいた頃より随分固くなっているような気がして、急に切なさがこみ上げた。

固くなったハルの足首

この足を真剣に触ってあげたのはいつぶりだろう。
私が一緒だったら、もっとできたことがあったんじゃないか。

フィリピンでハルの面倒を見てくれるお手伝いさんは、インド時代のお手伝いさんに引き続き、本当にハルをかわいがってくれるし、よく面倒を見てくれる。ペースト食をつくり、食事介助をし、風呂に入れ、排泄を管理し、リハビリに必要な体操もおこない、日に何度もハルの写真を送信してくれる。今では誰よりもハルの笑顔を引き出すのが上手だ。何の不満もない。

それでも心のどこかで、私が一緒にいれば、教育についても医療についてももっと違う可能性が拓けたんじゃないかと思ってしまう、とんでもなく自分勝手な自分がいる。重労働であるハルの介護を手放して、自分のために時間を使いたいと思っていたのは他でもない、私なのに。

なんのことはない、私はただ、もう一度、ちゃんとハルの母になりたかったのだ。

ところが、ハルにごはんをあげようとだっこで食事介助をすると、ハルの頭を支える私の左腕には、みるみる内出血ができた。ただでさえ大きくなって、反り返りが強く、発作も頻回に起こるため、介助者への負荷は圧倒的に大きくなっている。

ハルの足腰を支える私の臀部は、ハルの体重の負荷で骨が椅子にあたり、15分ほどが限界。諦めて小児バギーに座らせてご飯をあげると、反り返りやぐずりなどで効率は一気に下がる。そのうえ途中で眠ってしまい、最後まであげられない。結局続きは見かねた夫がハルを抱っこしてあげてくれる。

私は一体何をやっているのだと、途方に暮れた。

「障害者」は人種ではない

インクルーシブ教育、という言葉が様々な場所で見聞きされるようになった。障害の有無に関わらず、多様な個性を持つ子どもたちが同じ場で学ぶ教育方針を指す言葉だ。

2018年にインド・デリーに移住した時、ハルが教育を受けられる場所をインターネットで探すと、多くの公立・私立の学校で「インクルーシブ教育」を掲げていた。一瞬期待を寄せたが、入学条件や学校生活について詳しく調べると、結局の所その対象者は軽度の発達障害など、ごく一部の障害児であることがわかった。実際にいくつかの学校に問い合わせをしてみたが、やはり設備的に車椅子の子が生活することが難しかったり、教育内容が合致しないなどの理由でハルが入学できる学校はなさそうだった。

四肢を自分の意思で動かすことができず、目も見えず、言葉も理解しているかわからないハルのような子は、皮肉なことに「インクルーシブ教育」の対象になっていなかった。

結果的にデリー市内にある特別支援学校の早期教室に受け入れてもらい、様々な経験が出来たことは、ハルにとっても親にとってもありがたかった。それでも、ハルのきょうだいたちのことを考えると、ハルが地続きの世界にいることを周囲に自然と受け入れてもらうためにも、ハルときょうだいが同じ環境に身をおけるチャンスがあるとよいな、と心の片隅で思っていた。

インドの伝統行事に参加するハル

2020年に日本に帰国することを決めた時、日本でもインクルーシブ教育をうたっている学校がいくつかあることを知り、問い合わせをしてみた。決して毎日じゃなくてもいい、1週間に1度でもよいから、きょうだいたちと同じ学校に通えないだろうか。結果、「障害を理由に入学をお断りすることはありません」と回答があったものの、入学には至らなかった。

日本の特別支援学校を否定するつもりは毛頭ない。地域によって差はあるものの、高い専門性を持ち、それぞれのハンディキャップに応じた目標設定をし、入学したお子さんがものすごく成長したという話も沢山聞く。

ハルも日本で特別支援学校に行くという選択肢があることはありがたい。ただし、それが我が子にとってベストな選択なのかどうかはわからなかったし、ハルがきょうだいたちと違う学校に行くのであれば、日本に帰ってくる意味は半減するような気がした。身体障害がある子の場合、医療と教育はほとんど切り離せないはずだが、日本では制度上医療と教育が分断されているのも気になった。理由はそれだけではないけれど、結局、ハルは夫と共に、お手伝いさんが24時間助けてくれる海外での生活を選んだ。

インドでもマニラでもコロナのせいで学校はしばらくストップしていて、それが他の3人の子が日本に戻ってきた最大の理由でもあったのだけれど、ハルがマニラに移住して数ヶ月すると、マニラでも学校が再開し始めた。ハルも通える学校を探し始めたが、難航するどころかほとんど暗礁に乗り上げたまま身動きがとれていない。

インクルーシブ教育をうたっている学校の多くが、重度の重複障害児を対象としていなかったのはデリーと同じだったが、ハルに適した特別支援学校すらみつからなかった。多くの”Special School”は、発達障害など、ある程度知的レベルがある子たちが対象だった。

ハルのような重度障害児が通う学校はみあたらず、フィリピン人のお手伝いさんに「ハルのような障害のある子たちはフィリピンではどうやって過ごしているの?」と聞くと、「みんな家で見ているんですよ。」と話してくれた。インドでも重度の障害児は家で見るのが当たり前のようだったし、結局そういうことなのだ。

インドでもフィリピンでも、発達障害や、知的発達遅延のない身体障害の子をさした「障害児」のインクルーシブ教育は結構うたわれているようだが、知的障害と身体障害が重複したりすると途端に実質的には対象外となる。その線引きは、曖昧なようで案外截然とあるように思える。

ハル姉が愛おしくてたまらない弟

障害児の実態をよく知らない多くの人は、「障害児」という言葉を、まるで一つの人種のように使うけれど、その実態は全くひとくくりにできない。同じ病気だったとしても、進行状態や症状が全く違うこともあるし、同じ脳性麻痺の子でも、歩ける子もいればバギーにうまく座ることすらできない子もいるし、食べられる子も食べられない子もいる。

ハルは確かに障害児だけれど、ハルはハルでしかない。私は障害児であるハルのことをよく知っているけど、ハルじゃない障害児のことはよく知らない

遠い異国の地で日本人に会うと、急に同族意識が芽生えたり、同じ文化や風習にほっとしたりすることがあるけれど、障害はそういうものでもない気がする。「障害」という土台自体が、あまりに多様で、あってないようなものだから。

障害は国籍でもなければ人種でもない。

「障害」という言葉を大雑把に扱うことで、誤解を呼ぶこともある。インクルーシブ教育の考え方には可能性を感じているだけに、もう少し丁寧な理解をたどりたい。そして、本当の意味で、すべての子供達がひとつづきの世界で生きる教育現場が、少しずつ実現したら良いと願う。

ハルの仕事探し

一見ハルと同じ様に肢体不自由で、人工呼吸器をつけ、重い障害を持ちながらも仕事をしながら一人暮らしをしていた方の記事を読んだことがある。
その方は知的にしっかりしていて、ハルとはまた全然違う条件だったようだ。

別に悲観しているわけではなく、ハルはハルでしかないから、ハルだけの生き方を見つけなくてはいけないと、シンプルにそう思っている。

2拠点生活を1年半以上続けて気づいたのは、私はハルをやっぱり愛しているということと、想像以上にハルの人生をハルらしくすることに、自分が使命感をもっているという2つのシンプルな事実だった。

こんな当たり前のことに気がつくまでに、1年半もかかってしまった。不器用な母を許してほしい。

見てみぬふりはやめて、改めて、ハルがハルとして生きていくためのハルの仕事を、探していく。

「できるかもしれない」を家族みんなで携えて。


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