見出し画像

「音楽」にみる 2009年1月14日

三島由紀夫の「音楽」を読んだ。
今朝方まで椎名誠を読んでおり、昼に逢坂剛を読んだ私は、三島由紀夫を読む頃には
一日に天国から地獄に落ちたような、それぐらいの急激な変化を受けた。

椎名と逢坂は同時期に生まれているにもかかわらず、
それこそ天と地ほどの性質の違いがある。
が、どちらも私のこころにとてもひびくものがあり

どちらかというと三島はそのどろどろとした文体で
真実のものをありのままに描いており
椎名誠の日記のように簡潔でさっぱりとした文体は、
実は私にとってはとても雲の上のような
言うなれば一種の憧れのようなものを描いているように感じるのだ。

矛盾しているようで実はそうなのだと私は思う。


                 ☆


三島をはじめて読んだのは中学の時、
「金閣寺」だった。
そのどろどろした世界が中学生の私にはとてもおそろしく
それ以来手をつけられなくなっていたが
大学に入ってから「音楽」を買った。

以前の私にはただ三島の世界はどろどろと恐ろしいもの、
というひとくくりに過ぎなかったが
今日もう一度読んでみると、そのどろどろとしたものの正体が
以前よりもより明確になっていることに気がついた。

「小説」とは、
人間の一つの真実の姿をあらわす虚構である
と私は理解しているが、
三島は見事にそれをやってのけており、
それもとうてい一つの言葉ではあらわせないような
ぐちゃぐちゃとした黒いものの正体を一つ一つ暴こうとしていたのだと
今私は感じる。


                      ☆


「音楽」がテーマとしているのは性の快感。
私はそして、忘れていた遠くの記憶を思い出したのだ。
ルパン三世の話だ。
私は小学校の一時期まで祖父母宅に帰り、
夕方から始まるアニメの再放送を祖父と一緒に見ていた。
4年生からバレー部に入ったので
それは低学年のことだったのだろう。

峰ふじ子とルパンのちょっとエッチな描写が
そのときの私にはなんだかとても大切な
でも大人には言ってはいけないような想像の種となった。

私は夜布団の中で
峰ふじ子に自分をかさね、
ルパンとのいやらしい妄想をすることで
なんとも癖になりそうな感覚を味わっていたのである。

それは今考えるとまぎれもない「快感」であり、
私は小学校低学年にして
性的なエクスタシーを覚える「女」であったのだと
思い知らされる。

しかし、その感覚がそういうものであるとは
当時の私はまったく知る由もなく、
20歳前後になるまでそれと思い当たることもなかったのだ。
そうしてその経験をはたと思い出し、
それがそういうものだとわかったときの私は
そんな自分を恥じた。

しかし、今改めて思い出してみると
そういう幼いころの性的な記憶というものは
こと女性に関しては意外と多いような気がするのであり
何も恥じることではないように思う。

そして私は
唐突に「赤と黒」を思い出す。
中学2年の時に読んだスタンダールの「赤と黒」。
内容はすっかり忘れているが
私はそれを読んで「理性の恋」ということを考え、
そうして思春期の少女らしく
その潔癖な「理性の恋」という発想に酔いしれたのだ。

私の潔癖な考え方はこのころに作られたような気がしている。
そして、「キレイ」、「キタナイ」という考え方は、
えてして私の異性への感情と密接にリンクしているのだ。

                   ☆


ところで
小学校のころに思いを馳せていると
どうしても父とのことを考えてしまう。
椎名誠のアッパレな父親ぶりを読んだばかりだから
というのもあるかもしれない。

小学校低学年で
祖父母の畑に興味を持ち、農家になると言った私に
なぜ父は「そんなもんでは食っていけないだろう」
といったのだろう。

小学校4年でバレーボールに夢中になったとき、
「バレーばかりやっていたらバレー馬鹿になって勉強ができないだろう」と、なぜ否定したのだろう。

小説家になりたい、と蚊のなくような声で言ったとき、
「そんなバクチのような人生はだめだ」
と、なぜ一瞬で消し飛ばしたのだろう。

私の書く作文や数学の能力を褒めちぎっておきながら
私の可能性をなぜ後押ししてくれなかったんだろう。
なぜ一言、バレーに夢中になるわたしに
夢中になることはいいことなんだと
言ってくれなかったんだろう。

いい加減大人の年齢になって
私はどんなに否定されてもやりたいことをやればよかったのだと
当然のように思うけれど
幼い私にとって父親の存在は絶対的なものだった。

父の愛情は痛いほどに、痛すぎるほどに感じるけれど
私は父の言動がわからなかった。
わからないまま、ただ従わざるを得なかった。

今となっては父は一人の人間で
私に対しても一人の人間として
嫉妬や軽蔑や、そういう黒い感情が抱くことがあったのんだろう
ということが容易に想像はつくけれど
それでもどうしても私はそういうことにかんして
恨みのようなものを感じてしまうのは
やっぱり親子だからなんだろうか。

----------

※この記事は、2009年1月14日の日記を転載したものです。

※フッター写真は、DelhiにあるNational Gallery of Modern Art の「エクスタシー」という作品です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?